「日蓮」~日蓮宗開祖・立正安国論を唱え弾圧に負けず布教を行う~

池上本門寺 日蓮説法像

「日蓮(にちれん)」は、(生没年 1222年2月16日~1282年10月13日)は、鎌倉時代に活躍した僧侶で、大きな影響力を持った日蓮宗を開いた人物です。

鎌倉での布教活動により数々の弾圧を受け、鎌倉幕府第8代執権だった「北条時宗」によって佐渡へ流罪となり、のち病によって東京都大田区にある「池上本門寺」近くにて亡くなりました。

亡くなってから朝廷の「後光厳天皇」から「日蓮大菩薩(1358年)」、「大正天皇」から「立正大師(1922年)」の称号を送られています。

目次

生涯

日蓮は、承久4年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生したとされています。

父は「貫名重忠」、母は「梅菊」であるとする伝承があり、本人も生まれについて「安房国の片海、海辺の生まれ」などと述べている事から漁師を営んでいた家庭に生まれたのではないかとされています。

しかし、荘園を持つ人物の援助を受けたり、「清澄寺(せいちょうじ)」で初等教育を受けている事から、漁師の中でも身分が高い立場であったようです。

修行の始まり

日蓮は12歳の時、当時は天台宗だった「清澄寺」で「道善房」を師匠として学びました。

幼い頃より学門を極めようとしていたとされ、虚空地蔵菩薩に「日本第一の知者となし給え」と願掛けを行ったとされます。

少年時代の日蓮は様々な問題意識を持ち、また多くの宗派が乱立している状況に疑問を持っていましたが、これに答えを示せる者はいなかったため、日蓮は既にあった多くの宗派を妄信することを避け経典を独自の解釈で取り組んでいきました。

その後、様々な場所で研鑽を積む中「延暦寺」に滞在し学び「阿闍梨」の称号を得るほどになっていきました。

この時、日蓮が滞在したのは比叡山横川の「寂光院」と伝えられています。

日蓮宗の立ち上げと布教活動

「延暦寺」を始めとする各地での修行を終え建長4年(1252年)「清澄寺」に戻ると、学んだ成果を報告する場が設けられ、念仏と禅秀が妙法蓮華経を誹謗していると主張し、「南無妙法蓮華経」と唱える事を説いたとされます。

しかし、念仏と禅宗への批判をしたため熱心な信徒であった「東条景信」が激しく反発したとされ日蓮は「清澄寺」を去ることとなります。

伝承によれば、日蓮はこの時名乗っていた「是聖房」の名を「日蓮」と改めたとされ、同時に独自の宗派を立ち上げたとされています。

鎌倉での布教と立正安国論

日蓮は建長5年(1253年)、鎌倉の松葉ヶ谷に移り住むと布教活動を開始し、この年の11月、後の「六老僧」の一人である「日昭」が日蓮の門下となったとされています。

正嘉元年(1257年)8月には鎌倉で大地震があり、自然災害を重要視し仏法の観点から災難を防ぐ方法を模索し、伝承では現在の静岡県にある天台宗「実相寺」において所蔵の経典を解読研究し、「一代聖教大意」「一念三千理事」「十如是事」「一念三千法門」「唱法華題目抄」「守護国家論」「災難対治抄」などの著作にまとめたとされています。

さらに文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」を鎌倉幕府第5代執権の「北条時頼」に提出しています。

「立正安国論」によれば、大規模な災害や飢饉が生じている原因を「法然(浄土宗の開祖)」の教えが原因であり、この悪法を為政者や民衆が信じているためであるとしていました。

松葉ヶ谷の法難

日蓮の提出した「立正安国論」は鎌倉幕府から全く認められず、むしろ日蓮の考えは念仏勢力の激しい反発を引き起こしました。

文応元年(1260年)8月27日の夜、日蓮の住まいであった松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃される事件が発生します(松葉ヶ谷の法難)。

執権を務めた「北条長時」とその父「北条重時」が背後で画策したのではとの推測もあります。

この事件により鎌倉に留まることが出来なくなったため、下総国若宮(現在の千葉県市川市)の「富木常忍」の館に居を移し布教活動を続けたとされています。

伊豆へ流される

弘長元年(1261年)5月12日、鎌倉に戻り布教活動を継続しようとした日蓮は幕府に捕縛され伊豆へ流罪とされてしまいました。

流罪によって伊豆に滞在中、日蓮の監視を務めた地頭の「伊東八郎左衛門祐光」は、日蓮の祈祷によって病を癒してもらったことから念仏信者から改宗したとされ、門下であった「日興(にっこう)」が伊豆での生活を共にしたとされています。

弘長3年(1263年)に入り伊豆の流罪を赦免されており、鎌倉幕府の第5代執権を務めた「北条時頼」の判断によるものだとされています。

小松原の法難

文永元年(1264年)日蓮は母の病を看病するため帰郷しましたが、この時日蓮と弟子の一行を「東条景信」が襲撃し日蓮は頭部や左手に重傷を負い、弟子たちにも死傷者が出たと言います。

帰郷中、師であった「道善房」と再会し、改めて念仏から妙法蓮華経(法華経)に帰依するよう説いたそうです。

母が亡くなると再び鎌倉に向かっています。

元寇の予兆

文永5年(1268年)1月16日、蒙古と高麗の国書が九州の太宰府に到着し、鎌倉幕府はそれを朝廷に回送するなど対応しています。

貿易を結ぶことを求める内容でしたが、同時に侵略を示唆する脅しとも言えるものであり、日蓮は「立正安国論」を証明するものであるとし、第8代執権「北条時宗」や側近の「平頼綱」、「極楽寺良観」、「建長寺道隆」らの僧侶などに対しても意見を書簡で伝え諸宗と公の場で討論を行う事を要求しました。

しかし幕府は日蓮の主張に取り合わず、弾圧の勢いをさらに強めていきました。

龍の口の法難

文永8年(1271年)6月、日蓮は、権威を奮っていた僧侶「極楽寺良観」が、幕府から旱魃へ祈雨の祈願を要請されたことに対し、「7日の間に雨が降るならば日蓮が良観の弟子となるが、降らないならば良観が妙法蓮華経(法華経)に帰依せよ」と降雨祈願の勝負を申し出たが、良観はこれに応じなかったと伝えられています。

9月に入り、日蓮は幕府に召喚され「平頼綱」の尋問を受け後日、松葉ヶ谷の草庵に捕縛の兵を向けられています。

日蓮は「平頼綱」に対し、迫害を続けるならば内乱や外国の侵略は免れないと諫め、「平頼綱」は日蓮を馬に乗せ鎌倉市中を引き回すと、佐渡国守護「北条宣時」の元へ「預かり」としています。

「平頼綱」は秘かに処刑しようと日蓮を龍の口の刑場へと連行し刑が執行される寸前に、江の島の方角から強烈な光りが発せられ処刑人の武士が立ち眩み、刑の執行は中止されたという話が残されています。

斬首を免れた日蓮は佐渡へ流され、鎌倉の門下260人余りが、処罰を受けています。

佐渡へ流される

佐渡へ流された日蓮には「日興」などの弟子が従い共に生活をしたとされ、佐渡に流されていたこの時期に弟子たちによる「なぜ正しい教えを実行している修行者の私たちが災難や迫害に会うのか?」との疑問に答えた「開目抄 」を執筆しています。

「開目抄」の執筆が終わった文永9年(1272年)2月、幕府内の争い「二月騒動」が発生し、北条一門の「北条時章」「北条教時」兄弟と「北条時宗」の庶兄「北条時輔」を謀反の罪を着せられ粛清されました。

これにより日蓮が「立正安国論」で予言した自界叛逆難が現実のものとなったとしています。

その後、讒言によって罪を着せられたなどの事実が判明したとされ、「北条時宗」の命により佐渡の流罪を赦免されています。

身延山での布教活動

文永11年(1274年)4月8日、日蓮は「平頼綱」から蒙古襲来についての意見を求められ、襲来は確実であることや諸宗派への帰依を辞める事を進言し、それがなされない限り蒙古調伏の祈祷はしないと頼綱の要求を退けたと言います。

数度に渡る意見提出を鎌倉幕府は拒否し続けたと捉えた日蓮は、鎌倉を去ることに決め甲斐国(現在の山梨県)の身延山へ活動の拠点を移しました

身延山に滞在中 「法華取要抄」 を完成させるなどし、門下の弟子以外と面会をすることもなくなり俗世と関わりの薄い生活を過ごすも、依然として鎌倉幕府からは要注意人物として警戒されていました。

亡くなる年に常陸の温泉へ旅するまで身延山に滞在し動くことはありませんでした。

文永の役

文永11年(1274年)10月、モンゴル帝国が日本に攻め寄せる上陸し防人の兵士などを殺戮し侵攻しました。

一週間程度の戦闘だったとされますが日本側は甚大な被害を被り、日蓮は2年後に執筆した「一谷入道御書」で戦いの様子をを記述しています。

その後も著作の中で、蒙古襲来の意味を模索し、日本の滅亡も仕方ないと嘆くような文章も残しており、法華経に従わない僧侶をことごとく処刑せよなどと過激な考えを持つようになっていきました。

その後も、身延山において日蓮は膨大な量の執筆活動を行い、多くの教義を残しました。

熱原法難

日蓮の身延山での活動は、「日興」を始めとする弟子たちの活発な布教活動につながり、身延山を中心としてその一帯で多くの寺院や民衆が日蓮門下へ改宗する流れを生み出しました。

この流れを良しとしない、鎌倉幕府の権力と結びついた宗教勢力による圧力は高まって行き、やがて抗争は頂点へと達し信徒20名ほどが捉えられ「平頼綱」の取り調べを受ける事態へと発展して行きました。

捕えられた20人の信徒が一人も法華経の信仰を捨てず日蓮は本懐であるとしたと言い伝えられ、またこれにより「平頼綱」は尋問を打ち切り、3名を斬首しています。

弘安の役

再びのモンゴル手国襲来が計画され、弘安4年5月、対馬・壱岐へ上陸し殺戮を行い、さらに博多湾から侵略を開始しています。

しかし、後続の軍勢と合流した7月1日、大型台風の直撃を受けたモンゴル軍は壊滅的な被害を出し退却を余儀なくされました。

その後も、日蓮はモンゴル軍の退却に浮かれる世間を横目に再度の襲来を危惧し、朝廷にも働きかけるなど活動を続けています。

晩年と入滅

日蓮は、建治3年(1277年)の暮れに胃腸に病を発し、医師である門徒「四条金吾」の治療を受け一時的に回復するも、病は進行していきました。

日蓮は病を癒す養生のため9月8日、「波木井実長」や弟子たちと共に身延山から常陸(現在の茨城県)へ向かうため18日武蔵国荏原郡(現在の東京都大田区)にある池上兄弟の館に到着しましたが(現在の「池上本門寺」近く)、衰弱し身動きできなくなっていたとされています。

日蓮は池上の地において最後の説法を行い、10月8日には「日昭」「日郎」「日興」「日向」「日頂」「日持」 の6人を「六老僧」としました。

日蓮は、弘安5年(1282年)10月13日多くの弟子たちに看取られながら入滅し亡くなりました。

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