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「北条教時」~反得宗家の急進派・二月騒動で討ち取られる~

「北条教時(ほうじょうのりとき)」は、名越流の開祖となった「北条朝時」の子で、祖父は第2代執権を務めた「北条義時」で、母は「北条時房」の娘です。

名越流北条氏の一門であることから「名越教時(なごえのりとき)」ともよばれています。 

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生涯

鎌倉幕府の要職、引付衆や評定衆などを務めた人物です。

要職を務めましたが、執権を務める北条得宗家へ対抗意識が強かったとされ、文永3年(1266年)6月に、鎌倉幕府第6代将軍「宗尊親王」が京都へ送還された際、鎌倉幕府第8代執権「北条時宗」が止めるのも聞かずを軍兵数十騎を率いて示威行動を起こしたとされます。(絶対トラブルやつや・・・)

文永9年(1272年)には、執権の北条得宗家転覆を計画しましたが、鎌倉幕府第8代執権「北条時宗」によって討ち取られています(二月騒動)。この時38歳でした。

北条得宗家と協調路線を取ろうとしていた、兄「北条時章」もこの「二月騒動」で討たれています。

このとき息子の「北条宗教」、「北条宗氏」も共に討たれたとされます。

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