今回は、東京都大田区池上にある「池上本門寺(いけがみほんもんじ)」へ参拝して参りました!
ちょうど節分行事が行われていて活気に溢れていました!
池上本門寺の「節分」や「お会式」は大勢の人で賑わいで店も多く有名な行事となっています!!!
目次から↑↑↑各項目へ移動できますので、ご利用くださいね!
「池上本門寺」の節分と大聖人「日蓮」入滅の地!!!
さぁ「総門」へ到着です。
池上本門寺は第二次世界大戦のアメリカ軍による「焼夷弾(しょういだん)」でほとんどの建物が消失してしまったそうです。
かろうじて残ったのが、この「総門」とのことです。
歴史を感じさせる渋い造り。
「本門寺」と書いてありますね。
この額は、江戸時代初期に活躍した書家、陶芸家、芸術家である「本阿弥光悦(ほんあみこうせつ)」の筆によるものだそうです。
書に関して「寛永の三筆の一人」と称されるほどだったそう。
こちらが名物の96段ある階段です。
足に来ました!笑・・・きつかったです!!!
「福男福女」の名簿がりました。
ここは日蓮宗の大きなお寺・・・やはり某学会の方が大半なのでしょうか・・・
「福豆奉納者」の名簿がどのくらいの金額になるのでしょうか。
綺麗な桜が咲いています。
一本だけ桜の木があるのが良い感じです。
加藤清正が寄進した「此経難持坂」
みんな登るときはあんまり話してませんね・・・(笑)
「此経難持坂(ひきょうなんじざか)」
池上本門寺の参道にある階段です。
96段あり、豊臣秀吉や徳川家康に仕え活躍した「加藤清正(かとうきよまさ)」が寄進したものと伝えられている。
法華経宝塔品の偈文の96文字であることから96段の石段をつくったそうな。
「法華経」から坂名である「此経難持坂」も名付けられたそう。
立派な灯籠がたくさん並んでます。
火の灯っていない「常夜灯」。
96段の石段を登り振り返る。
日差しとの共演が美しいです。
歴史と日蓮宗
日蓮宗の大本山で日蓮入滅の地として知られています。
山号は「長栄山」院号「大国院」寺号「本門寺」となっています。
古来より「池上本門寺」と呼ばれていました。
日蓮聖人入滅の場所であり日蓮宗の十四霊蹟寺院となっており、七大本山のひとつにも数えられます。
1282年日蓮は病の身であったため身延山から、病治癒の湯治のために現在の茨城県へ向かいました。
途中で現在の東京都大田区池上ある「池上宗仲」の館に立ち寄ります。
その際にこの地を「長栄山本門寺」と命名したのが池上本門寺の起源であると言います。
その後この地で日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数である69384字に合わせた六万九千三八四坪を寄付しました。
それ以来「池上本門寺」と呼ばれ続けているそうです。
日蓮が亡くなると弟子の一人であった日朗が本門寺を継承しました。
鎌倉、室町時代を通じて武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家等の寄進などを受け栄えてきました。
こちらが「仁王門(におうもん)」です。
メインの本殿である「大堂」へ行く前に先ほどの「仁王門」から右側へ曲がります。
なんだか大きな石碑や造形物があります。
むっ!?
背後に大きなプレッシャーを感じます!
誰かがこちらを見ていると思ったら・・・
日蓮宗のヒーロー日蓮上人が。
日蓮上人像。
なんだか怒られている気分になる像です。
膝から下がないな・・・
怒られている気分はあながち間違いではなかったみたいです。
「日蓮大聖人説法像」だそうです。
「五重塔」とプロレスラー「力道山」の墓!!!
こちらは「五重塔」
31メートルの高さがあるそうで、第二次世界大戦の「焼夷弾」投下をまぬがれた貴重な建物の一つです。
江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局の願いにより1608年に建立されました。
ベンガラ塗りという技法で色付けされ、屋根は一部本瓦葺き、大昔は全てが本瓦葺きだったそうです。
1997年(平成9年)10月から2002年(平成14年)3月にかけて行われた大修理で、「五重塔」の石段からホンモンジゴケというコケの一種が見つかったそうです。
「五重塔」の大きさに圧倒されていると・・・!?
プロレスラー「力道山(りきどうざん)」の墓があるようです!
「力道山」といえば「木村政彦」との因縁が有名ですが、脱線するので機会があればと言うことで・・・
こちらが「力道山」のお墓です。
節分日だからなのか、わりと見物客がいました。
銅像がありますね。
プロレスラーだからか、優しいような挑発した笑みを浮かべているような・・・
そんな銅像の表情でした。
石碑まで建っちゃって。
しかし、本門寺は派手なお墓が多かったですね・・・日蓮宗だからでしょうか。
教祖がど派手ですから。
「長栄大蔵徳天」と「大黒福聚尊天」
節分会場へ向かう前にもう一つ。
ここは「長栄堂(ちょうえいどう)」
「長栄大蔵徳天」と「大黒福聚尊天」がお祀りされています。
当山の守護神として安置し奉る長栄大威徳天は、その昔高祖日蓮大菩薩、佐渡島御配流中、塚原三昧堂にて日夜法華経御読誦の折柄、初めて白髪の翁と現れ、法華経の行者を守護し別て海上安全諸縁吉祥の守護を成さんと誓い給い、高祖御生涯の間影身に添いて守護し、神変不思議の通力を現じ給う。 高祖当山にて入滅の後は長栄山の名の如く長栄大威徳天と仰がれ永く此の山に留まって末法萬年の末までも法華経の信者行者を守護すべしとて無料の神力を以って済度し給える尊神なり。 それば今日に至るまで威徳いよいよ広大にして一山益々栄え信仰帰依の人々を守護利益を蒙らずということなし
(池上本門寺境内の説明板より)
虫よけや除災などにご利益があるそう。
虫よけって初めて見ました。
石でできた鳥居です。
重厚でご利益がありそうです。
ガランガランと鐘が鳴ります。
ここは「二礼二拍手一礼」の神社方式のお参りで良いのでしょうか・・・
神社の額も立派です。
「節分会」
さて「仁王門」に戻って参りました。
メインの「大堂(だいどう)」がある広場まで突入します!
節分行事にあわせて屋台が出ていました。
こういうところで食べるから美味しいんですよね。
「お好み焼き」食べたい・・・
「仁王門」をくぐると何やら「ドンドンッ!!!」と音がします!
何かの団体の方達が奉納の太鼓を叩いていました。
晴天の空に太鼓が響き渡ります・・・ドンドンッ!!!
お手水の広場。
いつも思いますが、ここは神社なのかお寺なのか・・・
こちらがメインの「大堂(だいどう)」です。
中ではお経が読まれていました。
「なむなむ。」
奉納の品が山積みに。
立派な「大堂」の額です。
「祖師」である「日蓮」をお祀りしていることから「祖師堂」とも呼ばれているそう。
旧大堂は、1606年に「加藤清正」が母親の七回忌に建立したそうですが、1619年に火災によりやけてしまったそうです。
1628年、金1万両を掛けて再建されたました。(現在でいうとザックリ10億円くらいの価値のようです。)
1710年再び火災で焼失します。わざとやってんじゃないか(笑)
1723年規模を縮小の上再建された。
三回目に建てられた「大堂」は、1945年4月の空襲による「焼夷弾」で焼失。
1964年現在の大堂を再建した。
第二次大戦で焼失した旧堂には「本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)」筆の「祖師堂」の額が備えてつけてあったが戦災で焼失してしまいました。
堂内中央の厨子には、日蓮聖人坐像、右には日輪聖人坐像、左には日朗聖人坐像を安置する。
1966年には「川端龍子」による天井画「未完の龍」が描かれています。
振り返りざまの一枚です。
「大堂(だいどう)」を別角度で、しかし警備員と警察官がウヨウヨいるなぁ。
こちらは「鐘楼(しょうろう)」です。
毎回言ってるんですけど「鐘」をとるのは難しい。
しかもここは近くまで寄れないのが難易度アップ↑↑↑
これは現在は使用されていない江戸時代初期につくられた「鐘楼」だそうです。
「梵鐘」について
1714年紀州粉州(粉河)の鋳物師木村将監安成によって改鋳されたものである。
1710年の火災により旧鐘が損傷し改鋳したと伝えられる。
旧鐘の銘文が再刻されており、1647年「瑤林院(ようりんいん)」(徳川頼宜の室、加藤清正の娘あま)によって寄進されたことが知れる。
1945年4月の空襲で一部に亀裂と歪みを生じ、現在は鐘楼脇に保管されているが、江戸時代初期の形式を示す作品であるとともに、旧鐘の銘文が再刻されていることもきちょうである。
昭和49年2月2日大田区教育委員会
上記↑↑↑画像の説明版より引用
帰りの本門寺石段、来た時よりたくさんの人がおります
帰りに桜を見上げて写真をパシャッと光に映えて美しいです。
まとめと基本情報
「池上本門寺」は広いうえにたくさんの小さな寺院を抱えているのでたくさん写真を撮れました。
ちょうど節分だったのもあって良い感じに活気があって、パワーをもらえた気がします。
96段の石段を登って上から「総門」を見るのが絶景です。
春は石段周辺に桜がたくさん咲くのでお勧めですよ!
また春に行ってみようかと思っています!!!
「池上本門寺」基本情報
住所 〒146-8576 東京都大田区池上1−1−1
電話 03-3752-2331
拝観時間 16時頃まで(境内へは24時間入場可能)
拝観料 なし (霊宝殿のみ 300円)
駐車場有 100台ほど
ホームページ 池上本門寺ホームページ
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