「北条長時(ほうじょうながとき)」は、鎌倉幕府第6代執権を務めた人物です。(執権期間 1256年~1264年)
住んでいた地名などから「赤橋長時(あかはしながとき)」とも呼ばれました。
六波羅探題北方や連署の住職を務めた「北条重時」の次男として生まれ、嫡子となりました。母親は鎌倉幕府第4代将軍「藤原頼経」に仕えた「平基親」の娘「治部卿局」です。兄弟に第6代連署を務めた「北条義政」や、第7代連署「北条業時」
第5代執権「北条時頼」とは義兄弟、第8代執権の「北条時宗」は甥にあたります。
生涯
父「北条重時」が六波羅探題の任に着くため上洛する際、長時も随伴して上洛しました。
父の教育を受けながら今日で成長しました。
嫡男であった異母兄の「北条為時」は嘉禎元年(1235年)10月に疱瘡により生死を彷徨いますが、精神的疾患を伴う後遺症が残ったとされています。このことから父、重時により廃嫡され、長時が嫡男とされました。
執権として
宝治元年(1247年)3月27日、「北条時盛」の娘と結婚するし、6月の「宝治合戦」が起きると、その後の7月、父「北条重時」は第4代執権「北条経時」のあとは継いだ、第5代執権「北条時頼」の補佐として鎌倉に赴きました。
父、重時が鎌倉に向かった翌日の7月18日、長時が六波羅探題北方に父の後任として就きました。
同年6月6日、5月に「北条時頼」の妹で将軍「藤原頼嗣」の正室「檜皮姫」が重態とななり5月13日に亡くなります。
この時、父、重時の名代として鎌倉に向かっていた長時から派遣された飛脚はわずか3日という期間で京都の父、重時の元に到着した言います。
「宝治合戦」は6月5日のことであり、長時は鎌倉にいて「宝治合戦」の緊迫した情勢を京都の父重時に伝えたと推測されています。
「北条重時」を「宝治合戦」の黒幕で合ったとする説もあり、京都にいた重時が鎌倉の長時を通じ、「北条時頼」や「安達景盛」と連絡を取っていたのではないかと推測されている。
「宗尊親王」の将軍擁立に関わっていたとされ、「宗尊親王」が鎌倉に下向する際は、供奉の役割を担当しました。
建長8年(1256年)に引退した父「北条重時」の後任として鎌倉に戻った長時は、評定衆に加わり、六波羅探題北方は同母弟「北条時茂」が後任になりました。
建長8年(1256年)11月22日に第5代執権「北条時頼」は病のため、時頼の嫡男「北条時宗」に執権職を譲渡するまでの期間の中継ぎ役として長時が指名され、第6代執権に就任したとされます。
このころ実質的な権限は病の癒えた「北条時頼」が掌握していたようです。
1260年には赤痢で病床にあった「宗尊親王」の代理として「鶴岡八幡宮」の放生会に参列しています。
このころ既に長時自身、病が進行していたとされています。
文永元年(1264年)7月3日、病により執権職を辞任して出家、叔父の「北条政村」が7代執権となると、同年8月21日、「浄光明寺」にて35歳でなくなっています。
菩提寺の「浄光明寺」には長時の木像と位牌が現存しています。「勅撰集」に12首の歌が採録されている教養人でした。
長時の家系である赤橋流は「北条義宗」、「北条久時」、「北条守時」といずれも昇進が早かったようです。
家格の高さが北条氏の中において、得宗家に次ぐものであったようです。
赤橋流として、最後の執権をつとめた第16代「北条守時」の妹、足利尊氏の正室赤橋登子は曾孫にあたります。
長時は執権としての権力はなく忠実に事務処理を遂行していてようで、権力欲が乏しく着実に職務を執行し、将来の執権就任を予定していた「北条時宗」の権力継承に障害にならない人物だったようです。
父「北条重時」が鎌倉「極楽寺」の建立完成途中で亡くなったため、その跡を継ぎ「極楽寺」建設の事業を行っています。
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