東急池上駅から徒歩5~10分程の場所にある「池上本門寺」と周辺のお寺をご紹介いたします。
日蓮宗の開祖「日蓮聖人」入滅の地としても有名です。
「お会式」や「節分」、お正月年末年始にはたくさんの人で賑わいます。
周辺のお寺も互いの距離が近く、参拝されるなら一緒に観光されることをおススメします!!!
日蓮聖人入滅の地「池上本門寺」のアクセスと境内をご紹介!!!
加藤清正が寄進した96段もある「此経難持坂」や、第二次世界大戦中の焼夷弾爆撃の難を逃れた「総門」をはじめ見どころ満載のお寺です。
春には96段の石段を囲むように咲く桜が美しく、石段を登りっきって上から見降ろす桜の絶景は一度は味わってほしい絶景です。
また日蓮宗の重要なお寺としても有名で、鎌倉比企谷の「長興山妙本寺」や身延山の「久遠寺」と同格のお寺で、日蓮聖人が亡くなった場所でもあります。
「節分」「お会式」などイベント時には人があふれ、出店がたくんさ出回りにぎやかで楽しい雰囲気が最高です!
ぜひ一度ご覧になってみて下さいね↓↓↓
「中道院」
中道院
日蓮(にちがい)聖人の滅後、直弟子日頂聖人が開いた庵室を起源とする。
もとは本門寺の南の谷の先にあり、いつの時代にか当地に移された。
池上本門寺10世、中道院日陽聖人がここに隠棲したので中道院とよばれるようになる。
池上本門寺25世、日顗聖人の庵室(場所は不明)の不二庵が日顗聖人没後の宝暦4年(1754)中道院と合併。
かつては、日顗聖人の法脈に連なる池上本門寺貫主の退隠後の庵室であり、現在はその位牌所となっている。
(中道院内の説明版より引用)
庭園の梅がとても綺麗に咲いていました!
池上本門寺の入り口にあたる「総門」近くなのでぜひ一緒に参拝してみて下さいね↓↓↓
「常仙院」と「池上鬼子母神」
池上「常仙院」
天文18年(1549)池上本門寺9世日純聖人の退隠後の庵室として開創。
もとは玉蔵坊と称した。
常仙院開創に関わる伝説によると、蒲田御園村の豪士月村宗観(つきむらそうかん)の葬送の際に落雷と共に妖怪が出現して死者の右腕を持ち去ったが、日純(にちじゅん)聖人の祈念によりその腕が戻った。
日純聖人はこの怪異が自分の不徳の致すところとして池上本門寺を退き当地に隠棲したという。以来、雷除けの護符を乞う者が多く門前市をなしたと伝えられる。
(常仙院設置の池上の寺めぐりより)
池上「鬼子母神」
正応2年(1289)池上本門寺2世日朗聖人の直弟子、厳定院日尊(にちそん)聖人が開創。
天文5年(1536)西谷の西之院のとなりにあった成就坊と合併、現在地に堂宇を構えたと伝えられる。
成就坊の境内にあった弁財天を池上七福神として石造りの弁天宮にお祀りしている。
大正9年(1920)厳定院40世、山田潮栄上人が「子育て鬼子母神」を勧請し、昭和6年(1931)池上本門寺総門前に別院として池上鬼子母神堂が建立された。
寺院内の説明版「池上の寺めぐりより」
日純聖人の退隠後の庵室である「常仙院」と池上七福神で有名な「池上鬼子母神」です。
こちらも池上本門寺の「総門」近くにあるので一緒に見てみて下さいね↓↓↓
「本成院」
本成院
当院は山号を喜昇山(きしょうざん)、旧称は喜多院(きたいん、北の坊)と称す。池上本門寺の旧塔頭支院です。
寺伝によりますと、当院は佐渡阿闍梨日向上人(さどあじゃりにっこうしょうにん)の開基なり。
日蓮大聖人の直弟で六老僧の一人にして、弘安5年池上に御来向の砌池上右衛門大夫宗仲は草庵を造り、日向上人を住居せしめたといわれています。
当院は、はじめは池上の北谷の地、桐ヶ谷の北の端、とどめきという所にあって、北の坊または喜多院とよばれましたが、日舜上人の代に東谷にあった本成坊が廃坊となったので、これと合併再興されました。
この本成坊は日蓮大聖人の直弟で、中老僧の日源上人の庵室であったと伝わる。
慶長年間に池上本門寺13世日尊上人が当院を隠棲の場所と定め、寺域の整備、充実に心がけたので寺観は一新しました。
その後宝永年間の火災で焼失したので、15世喜多院日寶大徳が享保年間に現在地に移して再建、本成坊と称するようになったといわれています。
弘安5年(1282)日蓮聖人の直弟子日向聖人の庵室として開創。
はじめは池上の北谷の地「とどろき」という所にあり、北之坊または喜多院とよばれた。
その後、東谷にあった本成坊が廃寺となり、これと合併、再興された。
慶長年間(1596-1615)池上本門寺13世日尊聖人の隠棲地として整備されたが、宝永年間(1704-1711)に火災で焼失。享保年間(1716-1736)に現在地に移り再建、本成院と称するようになった。
「本成院」の説明版「池上寺巡りより」
日蓮大聖人の直弟で六老僧の一人「日向上人」の開基です。
日蓮上人の直弟子である「六老僧」の庵が「池上本門寺」の周辺にたくさんあります。
池上七福神の「福禄寿」をお祭りしてあります!
是非ご覧になってみて下さいね↓↓↓
「本妙院」
本妙院
池上本門寺2世日朗聖人の直弟子日傳聖人が庵室として池上の西谷に開創。
(年代不詳)旧称は妙蔵坊(みょうぞうぼう)。元亀4年(1573)火災で焼失。
池上本門寺12世日惺(にちせい)聖人が当時の住持、本妙院日逗(にちとう)聖人に再建の資助を与え、南谷外溝に移築再興し、本妙院とよばれるようになった。
元禄3年(1690)池上本門寺の防災のため支院の整備、配置換え、総門の建立、此経難持坂(石段)の改修などが行われ、本妙院も現在地に移されたという。
「本妙院」設置の案内板「池上の寺めぐりより」
池上本門寺2世「日郎聖人」の庵だったそうです。
こちらも池上本門寺の「総門」近くなのでぜひ一緒に見学してみて下さいね↓↓↓
「照栄院」と「南谷檀林」
照栄院
正応四年(1291)日朗聖人(にちろうせいじん)の庵室として開創。
日朗聖人没後荒廃したが、嘉吉年間(1441-1444)に再興された。
元禄二年(1689)南谷檀林という僧侶教育の学校を開設、明治二年(1869)に廃されるまで多くの高僧を送り出した。
本門寺の役寺としての三院家の一。
山上の妙見堂に祀られる妙見菩薩立像は寛文四年(1664)加藤清正の娘瑶林院が夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後世善処を祈念して奉納したもの。
「照栄院」設置の案内板「池上の寺めぐり」より
南谷檀林というお坊さんの学校だった場所です。
明治2年(1869年)まで多くのお坊さんがこちらで修行したそうですよ!
そんな空気感を感じたい方はぜひ見学してみて下さいね↓↓↓
「実相寺」
実相寺
天文19年(1550)江戸馬喰町に開創。明暦3年(1657)明暦の大火の後、浅草新寺町に替地を拝領して移転。寛保3年(1743)に呉服商「大丸」の店主の帰依を受け大丸寺とよばれた。大正12年(1923)池上の妙玄庵と合併して現在地に移り堂宇を建立。妙玄庵は池上本門寺24世日等聖人が隠棲した庵室で、享保12年(1727)大坊坂のそばに創建され、妙玄坊、要玄坊ともよばれた。
「実相寺」設置の案内板「池上の寺めぐり」より
浅草に元々あったとされているお寺で1923年にこの地へ移転してきたそうです。
浅草からここまで移設するなんてすごいですね・・・歴史を知ってから見学するとまた違った味わい方ができますね!
ぜひご覧下さいね↓↓↓
「真性寺」
真性寺
寛永2年(1625)に池上本門寺16世日遠聖人によって麻布今井町に開創された。
「真性寺」設置の案内板「池上の寺めぐり」より
当寺に安置されている帝釈天像は、もと13代将軍徳川家定の侍医佐竹文好の屋敷にあったもので、安政3年(1856)に当寺に遷され、幕末より大正期にかけて庚申の日には麻布の帝釈天とよばれて縁日の市が立ち大いに賑わったという。
戦災で全焼したため、昭和27年(1952)現在地に移り再建された。
「西之院」
西之院
日蓮聖人入滅後40~50年頃の開創。日蓮聖人が池上宗仲公の館に逗留されていたとき、直弟子日興聖人の庵室として創建されたと伝えられ、その弟子日法聖人を開山とする。もとは市野倉村の貴船神社(明治期に太田神社に合祀)そばの松や柏の鬱蒼として山の中にあったが、いつの時代にか当地に移された。
「西之院」設置の案内板「池上の寺めぐり」より
寛永年間(1624-1644)以後に日法聖人の庵室といわれる宝樹坊と合併し、西之院と号した。
日興聖人の庵室として創建されたと伝えられています↓↓↓
「厳定院」
慧光山厳定院
正応2年(1289)池上本門寺2世日朗聖人の直弟子、厳定院日尊聖人が開創。天文5年(1536)西谷の西之院のとなりにあった成就坊と合併、現在地に堂宇を構えたと伝えられる。成就坊の境内にあった弁財天を池上七福神として石造りの弁天宮にお祀りしている。大正9年(1920)厳定院40世、山田潮栄上人が「子育て鬼子母神」を勧請し、昭和6年(1931)本門寺総門前に別院として池上鬼子母神堂が建立された。
「厳定院」設置の案内板「池上の寺めぐり」より
池上本門寺2世日朗聖人の直弟子、厳定院日尊聖人が開いたとされるお寺です↓↓↓
「本町稲荷神社」
本町稲荷神社
創建の年代はわからない。
「本町稲荷神社」設置の案内板「池上の寺めぐり」より
もと本門寺の南方俗に土手と呼ばれる場所に鎮座していたが、社殿が大破したので大正九年近くにあった長栄稲荷、玉造稲荷、田上稲荷の三社を合祀して現在の位置に移った。
古くからあるようですが、池上本門寺周辺のお寺の中でも謎の多いお寺です↓↓↓
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