日蓮宗開祖「日蓮」が入滅する際に後事を託された六人の高弟たちの事です。
それぞれ「日蓮」が布教活動を開始した初期から師事しています。
「日蓮宗」は鎌倉時代と深く関わりのある宗派であり、モンゴル帝国の襲来などで鎌倉幕府執権の 「北条時頼」 、 「北条時宗」 などとの関わりもありました。
鎌倉にも「妙法寺」や「安国論寺」、「光則寺」など多くの日蓮宗に関わる寺院が残されています。
「日昭」、「日郎」、「日興」などは、鎌倉の松が谷(現在の「安国論寺」あたり)に拠点を置いて活動していたころにともに市の元で学んでいたとされています。
師の「日蓮」が亡くなった後は、師の教えの解釈などを巡り摩擦があったとされ、それぞれの流派や活動を行い各自の道を行くこととなりました。
日昭
師匠の「日蓮」よりも年齢が上だったとする説もあり、元々は天台宗の僧侶だったとされます。
「日蓮」が流罪となり鎌倉を離れている時には、中心となり布教活動を行うなどしていました。
1306年(徳治元年)には越後国の風間氏から協力を取り付け、鎌倉に「妙法寺」(のちに越後国に移転)を建立するなど活躍し、日蓮が死の直前「日郎」、「日興」、「日向」、「日頂」、 「日持」 らとともに選出され「六老僧」の一人となり、それぞれ流派が分立し現在の日昭門流(濱門)の本山は妙法華寺と村田妙法寺とされています。
鎌倉の「実相寺」境内には「日昭」のものとされるお墓が現存しているそうです。
日郎
「日蓮」が鎌倉の松が谷に拠点を構えていたころから「日昭」、「日興」らとともに学んだとされ。
鎌倉の 「妙本寺」 、東京都大田区にある 「池上本門寺」 などの建設に関わり、亡くなった際には鎌倉の「安国論寺」で荼毘に付されました。
鎌倉「妙本寺」は、「比企能員の変」で比企一族が、「北条時政」らに謀殺されるなど政治的事件の舞台ともなった場所です。
日興
初めは天台宗寺院の富士市岩本にある「実相寺」において学も、「日蓮」と出会い師事するようになります。
「六老僧」達の中でも特に師匠の教えに厳格だったようで、「日蓮」の入滅後は他の「六老僧」と仲違いしていた時期もあり、「日向」との確執は現在至るまで残されているようです。
鎌倉での布教時代から師の「日蓮」を支え、身延山に拠点が移った後も中心となり師の活動を支えました。
師の「日蓮」が亡くなると身延山の別当となり、「日向」らと確執が起き身延山を去ると「大石寺」などを建立し活動、死後は「北山本門寺」に葬られました。
日向
若年だった13歳より「日蓮」に師事し修行を始め弁舌に優れ「論議第一」とされた人物です。
1276年には「日蓮」の代理として、「日蓮」が学んだ師匠「道善房」の墓前で弔いのため「日蓮」が執筆した「報恩抄」を読み上げる大役を任されるなど活躍したとされます。
1313年になると「六老僧」の一人「日興」が身延山を去った後、身延山別当についていた「日向」は別当の地位を「日進」に任せると、隠居し62歳で亡くなったと言います。
日頂
幼少期より「日蓮」に師事して学んだ「六老僧」の一人です。
「日蓮」が佐渡へ流罪となった際には、共に佐渡へ渡り苦楽を共にしたとされ、師匠の死後は墓守として輪番を務め「本圀院山本坊」を建設したとされます。
日持
学問を始めた初期は天台宗寺院の「四十九院」で「日興」に師事しており、やがて「日蓮」に学び後に「六老僧」の一人に抜擢されるほどになりました。
師の「日蓮」が入滅すると、「日興」と仲違いをし、1288年(正応元年)師の「日蓮」が没した、現在の東京都大田区池上に「池上本門寺」に祖師像を安置した後、異国の地へ渡り布教活動を行ったなどとされますが真相は判明していないようです。
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