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「北条時章」~名越流第2代当主・不運にも二月騒動に巻き込まれてしまう~

「北条時章(ほうじょうときあき・ときあきら)」は名越流北条家に第2代当主となった人物です。

父親は名越流北条氏の開祖となった「北条朝時」で、祖父は鎌倉幕府第2代執権「北条義時」です。

目次

生涯

寛元3年(1245年)兄の「北条光時」「北条時幸」らが5代執権「北条時頼」を権力の座から引きずり落そうと企てた「宮騒動」で敗北し失脚しています。

「宮騒動」の事後、時章は許され、宝治元年(1247年)より幕府の評定衆となり活動しています。

時章は争いを好まず、執権の得宗家と歩みを同じくすることを希望していましたが、兄「北条光時」や弟「北条教時」が反得宗の筆頭勢力であったため、時章は望まぬ政争に巻き込まれたとされます。

「宮騒動」発生時の執権だった「北条時頼」の子「北条時宗」が鎌倉幕府8代執権となると、文永9年(1272年)に弟「北条教時」が時宗政権に対し反旗をひるがえしました。

時章は無実だったとされますが、追討の兵差し向けられ誅殺されてしまいました。(二月騒動)。この時、時章は58歳でした。

その後、時章は無実であったことが判明し、時章を討った「四方田時綱」ら5名の御家人は処刑されています。

「二月騒動」のあと、時章の子「北条公時」は評定衆へ就任し、孫「北条時家」は評定衆や鎮西探題を務めるなど幕府から重用されました。

この頃、モンゴル帝国による元寇が迫っていたことから、幕府は執権「北条時宗」への権力を集中させる動きをしていたため時章の存在が邪魔になっていたとする説もあります。

「二月騒動」が終息すると、時章が守護を任命されていた「大隅国」などが幕府に返還されていることから、初めから時章を誅殺する計画だったのではないかとされています。

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