「日興(にっこう)」は生没年1246年3月26日~1333年2月21日)、鎌倉時代の僧侶「日蓮」の弟子として活動し、「日蓮」の「六老僧」の一人に数えられる人物です。日蓮の死後日興門流を開いた開祖です。
生涯
「日興」は1246年(寛元4年)3月8日、甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(現在の山梨県南巨摩郡富士川町)で誕生し幼くして父が亡くなったことにより母は再婚相手の元へ向かい、「日興」は母の父である「河合入道蓮光」に養われ多と言います。
日蓮との出会い
初等教育を学んだのち天台宗寺院の富士市岩本にある「実相寺」に登り、修学に励んだと言い、現在の「実相寺」は日蓮宗に改宗をしています。
「実相寺」は当時は多くの書物を所蔵する「大寺院」であったとされ、鎌倉に大地震が発生したため「日蓮」は、災害の原因を仏法により究明すべく、正嘉2年(1258年)2月、「実相寺」の書物を閲覧し「立正安国論」執筆を準備したと言います。
この時に「日蓮」と出会ったとされ感動した「日興」は門下となりつつも「実相寺」で修行を続けたとされ、「日蓮」門下でありがら天台宗ともかかわりの深い僧侶として活動して行きました。
後に「日蓮」が伊豆へ流罪となると駆けつけ生活をともにしています。
弘長3年(1263年)2月、「日蓮」が流罪を解かれると共に鎌倉入りをし、活動拠点となった松葉ヶ谷の草庵(現在の「安国論寺」)において、「日興」も先に弟子入りしていた後の「六老僧」となった「日昭」、「日郎」らとともに修行したと推測されています。
鎌倉で日蓮に学ぶ
「日蓮」に学ぶ中、「日興」は独自に布教活動も行っており、生まれ育った富士方面において祖父「河合入道蓮光」など親族の多くが「日蓮」門下となったとされています。
文永7年(1270年)には、後に「六老僧」の一人となる「日持」が「日興」によって弟子入りしています。
さらに不況を続ける中で「日興」は、文永5年(1268年)8月、「実相寺衆徒愁状」を執筆し、各地の同士にとともに「実相寺」の腐敗を鎌倉幕府に訴えています。(「日興」が実際に書いたこの文書の草案が「北山本門寺」に現在も保存されているそうです。)
「鳥羽法皇」の帰依もある寺院でしたが、 幕府が補任した第4代院主「慈遍」は酒池肉林のふるまいを行っていたとされ、これに対し「日興」らが訴えを申し出たそうですが、当時の鎌倉幕府がどのような対応をしたかは良く分かっていないようです。
その後も「日蓮」が佐渡へ流罪となった際にも生活を共にし、「北条時宗」により流罪が解かれ鎌倉へ戻るまで傍に仕えたとされます。
身延山へ
鎌倉で布教活動を続けていた「日蓮」はやがて鎌倉幕府への働きかけを無意味であると感じ始めていたとされ、幕府の権力者「平頼綱」に対しモンゴル帝国調伏の祈祷を既存の宗派にさせるべきではないと訴え、 国主諫暁行うが鎌倉幕府は無視したとされます。
「立正安国論」から通算3度目の訴えが無視されたことを受け、幕府へ愛想を尽かした「日蓮」は鎌倉を去り身延山へ活動の拠点を移しました。
やがて「日蓮」の元を訪れる入信者を「日興」が指導することが多くなっていったそうです。
その後も、日蓮宗に改宗した僧侶を不当に迫害するなどした腐敗した寺院と公開討論を求めたり、幕府が任命した「竜泉寺」などの横暴に抗議するなどし争いが激化し農民信徒が捕縛され幕府の内管領「平頼綱」に尋問を受けるも屈せず、最終的に3名が処刑されるなどした「熱原法難」が起きるなどしました。
日蓮入滅後
「日蓮」は身延山に拠点を移してから他所へ移動することはなかったとされますが、病の身となり弘安5年(1282年)9月8日、常陸国(現在の茨城県)の温泉で療養するため向かいました。
子の旅に「日興」も付き添ったとされ、やがて 武蔵国荏原郡 (現在の東京都大田区池上)身動きが取れなくなり旅が続けられなくなってしまいました。(現在の「池上本門寺」あたり)
亡くなる直前の10月8日、「日蓮」は、「日昭」、「日郎」、「日興」、「日向」、「日頂」、「日持」の6人を本弟子と定め「六老僧」と呼ばれるようになったとされます。
身延山から退去する
「日蓮」の入滅後、次第に他の弟子たちと「日興」の教義への見解は大きく離れていったとされ、「日興」と親しかった「 波木井実長 」が六老僧の一人「日向」の意見に従い教祖の「日蓮」が定めた決まりを破る事態が発生して行き、「日興」は危機感を強め身延山を去りました。
身延を離れた「日興は」、新たに「大石寺」を建立すると師匠の「日蓮」にならい、自身の高弟6人を本弟子に定め、「日目」「日華」「日秀」「日禅」「日仙」「日乗」が選出されたとされます。
その後は、師匠の「日蓮」にならい幕府や朝廷に意見を述べる国家諫暁を行ったとされ、他の「六老僧」と違う点であるとされています。
「日興」が亡くなると現在の静岡県にある「北山本門寺」へ葬られました。
個人の感想ですが、師の「日蓮」に弟子の中でも特に憧れが強く心酔した人物だったのかなと思いました。
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