「北条重時(ほうじょうしげとき)」は、鎌倉幕府2代執権「北条義時」の3男。母は「比企朝宗」の娘「姫の前」、兄弟に「北条泰時」や「北条朝時」がいます。
極楽寺流北条家の祖となった人物です。子に第6代執権「北条長時」、第6代連署「北条義政」、第7代連署「北条業時」などがいます。
六波羅探題北方や連署など幕府の要職を務め、第3代執権「北条泰時」から第4代執権「北条経時」、第5代執権「北条時頼」まで三代にわたってを執権を補佐し、鎌倉幕府の政治に関わりました。
生涯
建久9年(1198年)6月6日、「源頼朝」が亡くなる前年、第2代執権務めた「北条義時」の三男として生まれる。
建仁3年(1203年)、6歳の時に「比企能員の変」が起こり、母の実家比企一族が父「北条義時」らよって滅ぼされています。
「姫の前」は義時と離婚すると京へ向かい、「源具親」と再婚するも3年後、重時が10歳の時になくなっています。
「吾妻鏡」には、兄「北条泰時」、「北条朝時」、異母弟「北条政村」や「北条実泰」の元服が記載されていますが、重時の記録はありません。
母が亡くなった時期と元服するころ合いが重なっていることもあり、あまり恵まれた少年時代ではなかったと推測されています。
六波羅探題として
元仁元年(1224年)6月13日、27歳の時に父が死去し、異母兄の「北条泰時」が鎌倉幕府第3代執権となっています。
寛喜2年(1230年)3月、京都で六波羅探題北方を務める泰時の嫡子で甥の「北条時氏」が病気になり、その後任として鎌倉から京へ上洛すると、で六波羅探題北方に就任しています。
以降17年間の長きにわたり六波羅探題を取りまとめました。
「御成敗式目」制定に関して第3代執権「北条泰時」から重時にあてた書状は有名です。
仁治3年(1242年)鎌倉幕府が「後嵯峨天皇」を擁立した際には、重時の同母妹「竹殿」を妻としていた「土御門定通」とともに工作が行っています。
同年に第3代執権「北条泰時」が病に伏せると、六波羅探題南方を務めていた「北条時盛」と共に鎌倉へ向かっています。
泰時が没すると重時は六波羅に帰還しています。「北条時盛」は鎌倉に留まったため、探題は重時のみとなり、鎌倉に戻るまでの5年間を単独で六波羅探題を務めました。
第3代執権「北条泰時」が亡くなると、同母兄「北条朝時」は泰時の後継を巡って動きがあったとされていますが、詳しい事は分かっていないようです。
泰時と朝時の間は疎遠であり、両家の争いは後年まで尾を引いていますが、重時は一貫して兄、泰時との友好関係を築いており、重時の家系はその後も得宗家を補佐しています。
寛元4年(1246年)、宮騒動により第4第将軍を務めた「藤原頼経」が京へ強制送還されています。
この年の8月、重時は「後嵯峨上皇院司葉室定嗣」を六波羅に招き、5代執権「北条時頼」からの、事件に関与した「九条道家」父子の更迭を「後嵯峨上皇」に奏上することを要請して行い、幕府と上皇の仲介を行ったとみられています。
9月1日、第5代執権「北条時頼」は「三浦泰村」に対し、幕政を補佐してもらうため重時を京から呼び戻したいと相談するも「三浦泰村」は頑なにこれを拒んだと言われています。
連署時代から晩年
宝治元年(1247年)に第5代執権「北条時頼」と安達氏が組み、三浦氏を滅ぼしたています(宝治合戦)。
三浦氏滅亡後、50歳の重時は時頼の要請により鎌倉へ戻り、叔父「北条時房」が亡くなってから、空席となっていた連署に就任しました。
六波羅探題北方は次男の「北条長時」が後任として就任し、重時の長女「葛西殿」は時頼の正室となり、モンゴル帝国の襲来を防いだ、第8代執権「北条時宗」を生んでいます。
建長8年(1256年)に出家し、引退後は「極楽寺」に隠居しています。後任として連署は弟「北条政村」が就任しました。
同年執権「北条時頼」が病で出家したため、後任として6代執権に「北条長時」が就任しました。
弘長元年(1261年)6月1日、重時は病に伏せました。
「吾妻鏡」の記載によれば、厠で「怪異」により「心神網然」になり、以後は「瘧病」のような症状となったという。
「鶴岡八幡宮」別当の隆弁に6月11日に加持してもらったとされ、隆弁は6月22日に症状が回復すると告げた。その予言通り、22日に重時は病気から回復したとされます。
5か月後11月3日、「極楽寺」において64歳で亡くなると、「極楽寺」に葬られました。
「六波羅殿御家訓」「極楽寺殿御消息」などの家訓を制定したことでも知られています。
鎌倉以外に重時に関係することとして、時重の5男「時千代」が僧侶となり、現在の大田区大森に「厳正寺」を建立し、付き従った家臣が雨ごいをし建立されたとされる「上神明天祖神社(蛇窪神社)」があります。
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