鎌倉幕府第8代執権「北条時宗(ほうじょうときむね)」は、1268年~1284年まで鎌倉幕府執権や第4代連署を務めた人物です。
代々鎌倉幕府の執権を務める、北条氏の嫡流得宗家に「北条時頼」の子として生まれました。
当時の大規模な帝国であったモンゴル帝国による2度にわたる襲来(一般に「元寇」と呼ばれている)を防いだ人物として知られ、北鎌倉・山ノ内にある鎌倉五山第二位の「円覚寺」を開山したことでも知られています。
生涯
建長3年(1251年)5月15日、安達氏の邸宅に生またとされ、「甘縄神明社」に時宗が生まれたときに産湯に使われたとされる井戸が残っています。
兄に「北条時輔」がいましたが、側室から生まれていたため時宗が後継者に指名されました。
康元2年(1257年)まだ7歳という幼さで、将軍御所において征夷大将軍であった「宗尊親王」の加冠により元服し、のちに執権となった時宗を支えた「安達泰盛」が烏帽子を運んだとされます。
弘長元年(1261年)4月に「安達義景」の娘で「安達泰盛」の異母妹であった「堀内殿」と結婚しました。武術の腕も高かったとされ「極楽寺」での武芸大会で「宗尊親王」から称えられたという話も残されています。
文永元年(1264年)7月、鎌倉幕府6代執権の「北条長時」が出家し、「北条政村」が第7代目の執権に就任しました。
時宗は14歳という若さでで執権の補佐を務める連署に就任すると、「北条政村」や「北条実時」と共に、文永3年(1266年)に鎌倉幕府の転覆を計画していたとされる「宗尊親王」の廃位と京都送還、「惟康親王」の擁立などを行いました。
元寇に至るまで
文永5年(1268年)正月、高麗の使節が元の国王「フビライ・ハーン」の国書を持って大宰府を来訪し元への服属を求めました。
時宗は前執権の「北条政村」や義兄の「安達泰盛」、「北条実時」、「平頼綱」の補佐を受け、御家人の所領譲渡制限、大宰府を始め外国への防衛強化や異国調伏の祈祷などを行い、モンゴルからの度々の国書に強い態度で応じました。
文永8年(1271年)、モンゴルの使節が再来日して戦争が避けられないと判断すると、少弐氏などの西国御家人に戦争の準備を指示しました。
こうした国難へ向けて幕府へ権力を集中させるため、文永9年(1272年)には、執権となった時宗に不満を抱いていた異母兄の「北条時輔」や、一族の「北条時章」、「北条教時」兄弟を誅し、「世良田頼氏」を佐渡へ配流するなどしました(二月騒動)。
文永11年(1274年)、「立正安国論」を幕府に上呈した「日蓮」を佐渡に配流するなど、元に対する強硬姿勢のみならず、国内の世論や一門に対しても強い態度で臨んでいます。
文永の役
文永11年(1274年)、元軍が日本に襲来し、激戦の末に元軍の内陸部への進撃を阻止しています。
翌年、降伏を勧める使節「杜世忠」の一団が来日し、時宗は鎌倉で引見し、連署の「北条義政」の反対を押し切って処刑しています。
建治3年(1277年)に義政は程なく連署を辞して出家し連署は約6年間空席となり、弘安6年(1283年)に「北条業時」が連署に就任しました。
弘安2年(1279年)に再度来日した「周福」らの一団も大宰府で処刑し、処刑には元への示威行動の意図もあったとされています。
時宗は異国警固番役を強化拡充し、長門探題及び長門警固番役を新たに設けるなど、博多に現代まで残っている石塁を構築すして国防を強化しました。
特に石塁や警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも兵や兵糧の調達を実施したため、鎌倉幕府の西国における実質的な支配権を拡大しました。
北条家に権力を集中させる得宗専制の強化は、時宗が亡くなった後の、弘安徳政にも反映されていきました。
弘安の役
弘安4年(1281年)の弘安の役では、時宗の名前で作戦の指示が出され、時宗の代理となる御内人が戦場へ派遣されて部隊の指揮にあたった。
元軍は、日本軍の抵抗に苦戦すること約2か月、台風による混乱に加え、日本軍の総攻撃により敗戦しました。
二度の元軍の襲来を撃退したものの、戦後には恩賞問題などが発生し、財政難を抱えつつ3度目の元軍襲来に備え国防を強化しなければならないなど、難題が山積みでした。
晩年
弘安7年(1284年)頃には、病に侵されていたとされ、4月4日には出家し、同日に34歳(満32歳)で亡くなりました。
時宗自身が開山した、北鎌倉・山ノ内にある「円覚寺」に葬られ、「円覚寺」の「佛日庵」に眠っています。
時宗の後任として、子の「北条貞時」が第9代執権となっています。
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