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「北条泰時」~鎌倉幕府第3代執権~

「北条泰時(ほうじょう やすとき)」は、鎌倉幕府第3代執権を務めた人物です。(在職1224年~1242年)

第2代執権「北条義時」の子として生まれ、鎌倉幕府北条家の中興の祖であり「御成敗式目」を制定した人物として知られています。

目次

生涯


寿永2年(1183年)鎌倉幕府第2代執権「北条義時」の長男として生まれ、母は側室の「阿波局」で出自は良く分かっていません。

泰時が10歳の頃、御家人の「多賀重行」が泰時と擦れ違った際、重行が下馬の礼を取ず、「源頼朝」が咎めたと言います。

鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」の外戚という、地位が高い北条氏への態度に重行が礼を欠いていると糾弾しました。

「多賀重行」は、自分は非礼を働いていない、泰時も非礼だとは思っていないと弁明し、泰時に問い質すよう頼朝に促したと言います。

そこで泰時に事の経緯を問うと、自分も非礼だと思ってはいないと語ったそうです。

しかし頼朝は、「多賀重行」の所領を没収し、泰時には褒美として剣を与えたとされています。

この話は、泰時の寛大な人格を表現しており「吾妻鏡」に記載されていますが、北条氏を良く見せようとする曲筆ではないかとする説もあります。

建久5年(1194年)2月2日に13歳で元服した泰時は、烏帽子親となった「源頼朝」から偏諱を賜り、この時期「頼時(よりとき)」と名乗りました。「泰時」は後年名乗ったそうですが、経緯は不明です。

元服とともに頼朝の命により「三浦義澄」の孫娘で「三浦義村」の娘「矢部禅尼」を正室に迎えています。

翌年には嫡男「北条時氏」が誕生しましたが、後に三浦氏の娘とは離別し、「安保実員」の娘を継室に迎えています。

同じ年の建仁3年(1203年)9月には、「比企能員」の変で比企討伐軍に加わっています。

建暦2年(1212年)5月、異母弟で「北条義時」の嫡子であった「北条朝時」が鎌倉幕府第3代将軍「源実朝」の怒りを買って父「北条義時」に義絶され、失脚しました。
建暦3年(1213年)の和田合戦では父の義時と共に「和田義盛」を滅ぼしています。

承久3年(1221年)の「承久の乱」では、泰時は幕府軍の総大将務め京へ上洛しました。この時39歳。

「後鳥羽上皇」方の倒幕軍に勝利し京に入ると戦後、京都に設置された六波羅探題北方に任命され、北方と対をなす南方には共に上洛した叔父の「北条時房」が就任しています。
以降京に留まって朝廷の監視や戦後処理や京都周辺以西の御家人を統率しました。

執権として

貞応3年(1224年)6月、父「北条義時」が突然亡くなります。

鎌倉では継母の「伊賀の方」が実子の「北条政村」を次の執権にしようと「伊賀氏の変」が起きています。

伯母である「北条政子」「大江広元」は、泰時と時房を御所に呼び二人を執権に任命すると、「伊賀の方」らを謀反人として処罰ししました。

泰時は政子の後見の元、家督を継ぎ42歳で鎌倉幕府第3代執権となり、一説には「執権」という制度が、泰時によってつくられたのではないかとする見方もあります。

「伊賀の方」は幽閉され、担ぎ上げられた異母弟の「北条政村」や事件への荷担の疑いがある「三浦義村」は不問とされました。

流罪となった「伊賀の方」の兄の「伊賀光宗」も「北条政子」の死後許されて帰参しています。

父「北条義時」の遺領配分に際、泰時は自らは多く取らず弟妹に多く与えたとされます。
泰時の人徳を表す話ですが、一方で四方に気を配らなければならなかった厳しい状況があったこともうかがわせます。

嘉禄元年(1225年)6月に頼朝以来の幕臣「大江広元」が亡くなり、7月には「北条政子」も世を去り、幕府の重要人物が連続して欠けました。

強力に泰時を補佐してくれた政子の死でしたが、泰時にとっては独自の決定権が高まる事にもなりました。

この頃から泰時は「源頼朝」以降続く専制体制に代わり、集団による合議政治を開始しました。

叔父の「北条時房」を京都から帰還させ、互いに嫡男である「北条時氏」と「北条時盛」を後継の六波羅探題に任命しました。

これにより「両執権」による体制が確立され、2番手の役職を後に「連署」と呼ぶようになります。

さらに「三浦義村」ら有力御家人代表と、「中原師員」ら幕政を司る合計11人の評定衆を選んで政所に出仕させ、執権2人を加えた13人の評定会議を幕府の最高機関として定めました。

鎌倉幕府3代将軍「源実朝」が暗殺されるとに新たな鎌倉殿として、「藤原頼経」を迎え、頼経は嘉禄2年(1226年)1月27日、征夷大将軍となり鎌倉幕府4代将軍となりました。

京より「藤原頼経」を迎える前の嘉禄元年(1225年)12月20日、「源頼朝」以来大倉にあった幕府の御所に代わり、「鶴岡八幡宮」の南、「若宮大路」の東側である宇都宮辻子に幕府を設けます。現在も「宇津宮稲荷神社」として跡地が残っています。

以後はすべて賞罰は泰時自身で決定する旨を宣言し、将軍独裁時代からの心機一転を図る遷都として行われたと見られます。これにより将軍職から実権は失われていきました。

泰時は、鎌倉の町に京都と同じ都市制度を導入し、鎌倉の材木座に、宋の船も入港した「和賀江島」の港をつくるなどしました。

嘉禄3年(1227年)6月18日に16歳の次男「北条時実」が家臣に暗殺され、3年後の寛喜2年(1230年)6月18日、長男の「北条時氏」が28歳でなくなります。

7月には「三浦泰村」に嫁いだ娘に子が生まれますが、10日余りで亡くなり、娘自身も産後25歳でなくなってしまいうなど、家庭の不幸に見舞われています。

御成敗式目

1221年に起きた「承久の乱」以降、新たに設置された地頭の仕組みから各地で争いが発生しました。
また集団指導体制導入により「源頼朝」以降の「先例」による紛争解決が難しくなっており、泰時は京都の法律専門家に学び熱心に勉強したと言います。

泰時は「道理」を大切にし、統一的な基準となるものを創ろうとしました。

泰時や評定衆たちは案を練り、貞永元年(1232年)8月、全51ヶ条からなる幕府の新しい法律を定めました。
はじめは「式条」や「式目」と呼ばれていたこれらの法律は、後日「御成敗式目」や「貞永式目」と呼ばれるようになりました。

「御成敗式目」が完成すると、泰時は六波羅探題として京都にあった弟の「北条重時」に「御成敗式目」に込めた思想いを綴った2通の手紙を送っています。

「御成敗式目」は日本では珍しい、日本の慣習や考え方に沿い独自に定められた法律です。
日本の法律は、昔は中国、現在では欧米の法律を元に作られていることを考えると、特殊な偉業であるのではないでしょうか?

晩年

寛喜3年(1231年)には「寛喜の飢饉」が発生し対応に追われています。

寛喜2年(1230年)、泰時は嫡男の「北条時氏」に代わって異母弟の「北条重時」を六波羅探題北方に任命し、後任の小侍別当には異母弟の「北条実泰」を命じており、両名とも泰時が信頼する人物であったようです。

後年「北条実泰」引退した後、時氏の長男である「北条経時」と実泰の長男である「北条実時」が交互に別当の地位に就いています。

嘉禎元年(1235年)に、「石清水宮」と「興福寺」との争いが起き、「比叡山延暦寺」まで加わる闘争が起きました。
泰時はこれに対し強権を発し武力によって寺社勢力を押さえつけました。

暦仁元年(1238年)には「藤原頼経」が上洛し、泰時ほか「北条時房」、「北条実時」そして泰時の孫で後の第四代執権「北条経時」第5代執権「北条時頼」兄弟ら同行しました。

仁治2年(1241年)11月25日、泰時は「北条経時」と「北条実時」を自邸に呼び、「三浦泰村」や「後藤基綱」ら有力御家人、「二階堂行盛」や「太田康連」といった実務官僚を集め、「北条経時」を後継者に指名しました。

仁治3年(1242年)に「四条天皇」が崩御したため、皇子の「忠成王」が新たな天皇として擁立されようとしていました。

この時、泰時は皇子の父「順徳天皇」が「承久の乱」を主導した内の1人であったことから「忠成王」を即位させるならすぐに退位させるという態度を崩さず、反対勢力に屈さず「後嵯峨天皇」を新たな天皇として即位させています。

強引な措置により、「九条道家」や「西園寺公経」など京都の公家衆との関係が悪化したと言います。

新天皇の叔父である「土御門定通」は泰時の妹「竹殿」を妻としていたことから、泰時は定通を通じ朝廷へ勢力を伸ばしていくこととなりました。

「吾妻鏡」によれば、仁治2年(1241年)6月27日に泰時は体調を崩して騒ぎになったようです。

仁治3年(1242年)5月9日、出家し、泰時の異母弟の朝時をはじめ、泰時の家来約50人が一緒に出家したとのことです。

同年6月15日に60歳で亡くなりました。「北条義時」や「北条政子」、重臣だった「大江広元」が同じ季節に亡くなっている事から祟りではないか?などの噂が流れたといいます。

泰時が亡くなると、早世した嫡男「北条時氏」の長男、「北条経時」が就任しました。

泰時の菩提寺は、北鎌倉・山ノ内にある「常楽寺」となっています。

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