「北条時氏(ほうじょうときうじ)」は、建仁3年(1203年)鎌倉幕府3代執権「北条泰時」の長男として生まれ、六波羅探題などを務めた人物です。
子に第4代執権「北条経時」、第5代執権「北条時頼」などがいます。
生涯
承久3年(1221年)に「承久の乱」が発生すると、父の泰時とともに東海道から京都へ上洛し攻め上りました。
5月21日に18騎で従軍したといいます。
このとき、6月14日の「宇治川合戦」では、宇治川の急流に苦しむ幕府軍の中で、敵前渡河する功績を立て、激しく抵抗する朝廷軍に勝利する切っ掛けをつくるなど活躍しました。
貞応3年(1224年)6月、父の泰時が、第3代執権へ就任するため鎌倉に戻ると、泰時の後任として六波羅探題北方に任じられ京都に赴きました。
嘉禄3年(1227年)4月20日には、修理亮、安貞元年(1228年)には若狭国の守護となるなど順調に官位も上昇していき、時氏は父、泰時の後を継ぎ、第4代執権なることを期待されていました。
時氏が六波羅探題に就いていた時期は「承久の乱」の影響で治安が悪化しており、警備担当職として京都の治安維持に努めた他、得宗家の嫡子という立場から六波羅探題南北両方を主導する執権探題として在職しました。
ところがトラブルが発生し、寛喜元年(1229年)3月23日、時氏の部下だった「三善為清(壱岐左衛門尉)」が借金の返済を巡って、日吉二宮社の僧侶だった貸主をあの世に送ってしまいました。
また、抗争した際に両者の従者も参加し、為清の従者も亡くなっています。(リアル任侠映画じゃない・・・)
日吉二宮社を管轄する「延暦寺」は為清の引渡を求め、また六波羅探題である時氏側も従者を亡き者にした下手人の引渡を求めて対立しました。
延暦寺の僧兵と六波羅探題の武士が衝突する騒ぎとなり、天台宗の座主だった「尊性法親王」はこの騒ぎの責任はとれないとして辞任してしまいました。
泰時は事件に関わった三好為清と同僚1名の配流を朝廷に申し入れようとするが、時氏はこれに激しく抵抗したために処分が決定したのは6月になってからとなった。
寛喜2年(1230年)3月28日、時氏は京都で財焼酎に病となり鎌倉へ戻りました。(完全にストレスやな)
「六波羅守護次第」によれば鎌倉へ向かう旅の途中、宮路山(現在の愛知県豊川市)で発病したと記載されています。
こうした話がある一方で、同年正月日付の「吾妻鏡」26日の記載には、滝口に人がいないという理由で有力御家人の子弟を上洛させたとあり、第3代執権「北条泰時」が延暦寺と対立した上、朝廷に対しても反抗的だった時氏を六波羅探題から外すための動きであったのではないかと推測する説もあります。
3月11日、時氏の後任には、後に連署となる「北条重時」が京都へ赴いています。
これより以前の2月19日には、重時就任を祝う犬追物が由比ヶ浜で開催され、時氏の交替は2月時点では既に決められていた可能性が高いとされています。
しかし、騒動から1年後に時氏が鎌倉へ帰還しているため、廃嫡のためではなく、第3代執権だった父、泰時の後継者として執権になるべく要職を務めさせるつもりだったのではないかとの見方もあります。
時氏の病気に対して、父の泰時は様々な治療や祈祷を行なったようですが、6月18日戌刻(午後8時頃)に28歳の若さでなくなっています。
「藤原定家」は「明月記」6月10日の記載で、時氏は消渇病(糖尿病)であると述べています。
くしくも、3年前に暗殺された弟の「北条時実」と同日になくなっています。(なんかスピリチュアルですね・・・)
時氏が亡くなると、「大慈寺(現在の明王院近く)」の傍にある山麓に葬られたと伝わっています。
泰時は息子の死をひどく悲しみ、時氏の死を悼んで出家する者が数十人にのぼりました。(明月記より)
この12年後、泰時が亡くなると第4代執権に時氏の長男「北条経時」が就任しています。
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