鎌倉幕府第2代執権「北条義時」

北条義時の肖像画

「北条義時(ほうじょうよしとき)」は、鎌倉幕府の第2代執権を務めた人物で初代執権「北条時政」の子として生まれました。

父は「北条時政」、兄弟姉妹に「北条宗時」、源頼朝の妻となった「北条政子」、鎌倉幕府初代連署「北条時房」がいます。

子に第3代執権の「北条泰時」「北条朝時」、第7代執権「北条政村」、連署を務めた「北条重時」がいます。

1219年「源実朝」「源頼家」の子「公暁」に暗殺され、源氏将軍が鎌倉から滅亡しました。
得宗家「北条義時」が鎌倉幕府の実質的な支配者となり、幕府と朝廷の対立が1221年に「承久の乱」を引き起こし、義時をはじめとする幕府軍は京都に上洛し、朝廷を制圧しました。

目次

生涯


「北条時政」の次男として生を受けました。母は「伊東入道の娘」。
義時が15、6歳の頃に姉の「北条政子」が伊豆の流人であった「源頼朝」の妻となっています。

治承4年(1180年)8月17日、義時は父「北条時政」、兄「北条宗時」と共に「源頼朝」の挙兵に従いました。

頼朝が挙兵してすぐの「石橋山の戦い」で「大庭景親」との戦闘に敗北し、兄「北条宗時」が戦死します。

「源頼朝」「土肥実平」らは箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬から出航して安房国に逃げ延びました。父、時政と義時も別ルートで前日に安房に脱出し、頼朝一行と合流しています。

9月8日、「北条時政」は甲斐源氏を味方にするため、義時と共に甲斐国へ向かいました。15日、「武田信義」「一条忠頼」のいる逸見山において、頼朝からの援軍の依頼を伝えたといいます。

10月13日、甲斐源氏は時政、義時と共に駿河国へ進攻。甲斐源氏との連携を成功させた時政は頼朝から報償を与えられたと言います。

12月12日、「源頼朝」は新造の大倉亭に移徙の儀を行い、これに義時も参列しています。

養和元年(1181年)4月、義時は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれたと「吾妻鏡」に書かれています。頼朝からの信頼は厚かったと見られます。

兄「北条宗時」が戦死したため嫡子になったとされるが、「吾妻鏡」において、義時は江間の姓で記されることが多く、江間家の初代であったされている。

元暦2年(1185年)、「源範頼」率いる平氏追討軍に属して西国へ赴き、葦屋浦の戦いや、文治5年(1189年)7月、奥州合戦に従軍するなどして武功を立てた。

建久3年(1192年)9月25日、頼朝の仲介により比企朝宗の娘で誉れ高い幕府女房であった姫の前を正室に迎える。そして翌年に嫡男「北条朝時」を儲ける。後に第3代執権となる「北条泰時」は庶子でした。

「源頼朝」が存命中は表立つことはなかったが、頼朝の死後、鎌倉幕府内の権力闘争において徐々に存在感を表してきます。

正治元年(1199年)の「源頼朝」が亡くなると、2代将軍「源頼家」の独裁を押さえる十三人の合議制に参加しています。

「梶原景時」が失脚した「梶原景時の変」では義時の同母姉妹の「阿波局」が関連しました。

建仁3年(1203年)7月に「源頼家」が病に倒れると、9月2日に父、時政は頼家の乳母父で舅である「比企能員」を自邸にて謀殺。頼家の嫡子「一幡」の邸である小御所において比企氏を滅ぼしました。(現在の鎌倉「妙本寺」に比企一族のお墓があります。)

さらに頼家の将軍位を廃すと、伊豆国の修善寺へ追放しました(比企能員の変)。

時政は「阿波局」が乳母を務めた12歳の「源実朝」を第3代将軍にし、10月9日には「大江広元」と並んで政所別当に就任しするなど権力を把握しています。

この時期の北条氏による有力御家人排除は、時政、義時が一体となって行われたが、元久2年(1205年)の「畠山重忠の乱」や、「牧氏事件」で父子は対立するようになる。

父、時政が後妻「牧の方」の讒言により人格者であった「畠山重忠」を亡き者にしたことによって、御家人たちの反感を買いました。

この時、義時は畠山討伐に反対したというが、これは父を追放したことを正当化するための「吾妻鏡」における曲筆であると見られています。

元久2年(1205年)閏7月、姉「北条政子」と、有力御家人「三浦義村」の協力により父、時政を伊豆国に追放しています。

父「北条時政」に代わって政所別当の地位に就いた 武蔵国は有力者の「畠山重忠」「平賀朝雅」の排除によって、義時が信頼する弟「北条時房」が武蔵国を治めることとなりました。

権力独占を急ぎ失敗した父、時政とは反対に、義時は柔軟な姿勢を示し、「頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外、一切没収せず」との大原則を明示し、御家人の支持を得ました。

一方で北条執権体制の障害となる有力御家人に対する抑圧策を進めていく。時政失脚直後の8月、下野国の宇都宮頼綱(時政の娘婿)に謀反の疑いありとして守護の「小山朝政」に追討を命じるなどした。

また各国守護を職務怠慢を避けるため定期交替制にしようとした。これは御家人達が激しく反発したことから断念しています。

この頃から義時の地位は独裁色を帯びてきます。

幕府創設期からの重臣で侍所別当の「和田義盛」を、建保元年(1213年)2月、「和田合戦」において滅ぼしています。

義時は「和田義盛」に代わって侍所別当となり、政所別当と兼務し幕府の重要な職を独占し、これにより北条氏の幕府内における地位が固められていきました。

また「比企の乱」の後に「姫の前」と離別、新たに「伊賀の方」を室に迎えて元久2年(1205年)に五男「北条政村」をもうけている。

建暦2年(1212年)5月、「姫の前」が生んだ次男「北条朝時」が将軍「源実朝」の怒りをかい義絶すると、駿河国へ蟄居させている。

承久元年(1219年)正月27日、「鶴岡八幡宮」での右大臣拝賀の際に、将軍「源実朝」が頼家の子「公暁」によって暗殺される事件が起こると、源氏将軍の血が断絶しました。

その日の拝賀式で、実朝の脇で太刀持ちをする予定だったのは義時であったが、体調不良により「源仲章」と交代し自邸に戻り襲撃を免れてたと「吾妻鏡」に記載されています。

この時の義時の逸話が「吾妻鏡」に残されています。

実朝暗殺の前年、義時の夢の中に、薬師如来につき従う十二神将のうちの戌神将が現れ「今年の将軍の参拝は無事であったが、来年の拝賀の日(実朝暗殺の日)には供奉しないように」 と告げたのだといいます。

「戌神将」が白い犬に姿を変えて楼門に現れ、義時の命を救ったいう内容が「吾妻鏡」の記載にあり、この夢のお告げに感じる者があった義時は、現在の鎌倉「覚園寺」の場所に私財を投じて「大倉薬師堂」を建立しています。

3代目将軍「源実朝」暗殺は、北条家の陰謀、「公暁」の野心が強かったためなど様々な説があり定かではありません。

実朝暗殺後、親王を将軍職に迎えようと朝廷と交渉するも上手く行かず、皇族による将軍職は諦め、初代将軍「源頼朝」の遠い縁戚である「藤原頼経」を4代将軍に迎えました。当時1歳だった「藤原頼経」を補佐する形で義時らは権力を握りました。

この時の、朝廷との対立が後の「承久の乱」の伏線となって行きます。

承久の乱

朝廷の「後鳥羽上皇」は軍備を拡張し、承久3年(1221年)5月14日、親鎌倉派を粛清して「伊賀光季」を誅し、倒幕の兵を挙げ、15日には、「北条義時」追討の宣旨が発布されています。

未だに朝廷の権威は大きく、義時に大きな難題として立ちふさがりました。

鎌倉幕府では朝敵となる事に動揺する御家人たちに対し、「北条政子」が「源頼朝」以来の恩を思いだすよう檄を飛ばし団結を図りました。

幕府首脳の中には慎重論もありましたが、「大江広元」の「防御では東国御家人の動揺を招く」という意見によって、京へ上洛し攻め上ることが決定されました。

義時は嫡男「北条泰時」を総大将として東海道から京都へ向けて進撃させ、次男「北条朝時」や弟の「北条時房」を大将軍として北陸、東山の三道から京へ上洛させました。

幕府側の積極作戦は効力を発揮し東国武士たちが続々と集まり、総勢19万と言われる大軍となって上洛しました。

上洛の途中、信濃国の市河氏が北陸道の大将軍「北条朝時」の到着を待たず積極的に進軍し、越後国と越中国の境、親不知付近を突破して前進しました。
義時はただちにその功を褒めたたえると「一人も残らず殲滅すること。」「敵をせん滅せずに功を急いで京を攻め上ろうとしないこと。」という、積極性を持ちつつも焦る事のないよう指示を出しています。

5月21日に鎌倉を発した幕府軍は、6月15日には京都を制圧。義時追討の宣旨発布からわずか一ヶ月後の幕府軍の完勝となりました。

「後鳥羽上皇」は倒幕計画を近臣達のモノであると弁明しましたが、鎌倉幕府は「後鳥羽上皇」ら首謀者に対して厳しい態姿勢をとり、「後鳥羽上皇」は隠岐島、「順徳上皇」は佐渡島に配流されています。

倒幕計画に反対していた「土御門上皇」は自ら望んで土佐国へ配流されたましたが、後に阿波国へ移され、その扱いは他の条項たちとは違ったようです。

「後鳥羽上皇」の皇子の「雅成親王」や「頼仁親王」もそれぞれ但馬国、備前国へ配流となり、在位70日余りの「仲恭天皇」は廃位され「後堀河天皇]が擁立されました。

親幕府派の「西園寺公経」らを中心として朝廷の再編成が行われると、上皇側の武士は最も厳しく処罰を受け大半が斬罪され、貴族も処刑、流罪、解官とされました。

「後鳥羽上皇」の莫大な荘園は没収され、後高倉院に寄進されたが最終的支配権は幕府が握っていたようです。
そして、公家政権の監視にあたる出先機関として六波羅探題が新たに京都に設置されました。

京方の貴族・武士たちの所領は全て没収され、その数は30,000ヵ所と言われています。
没収された所領は東国武士たちへの恩賞として配分されました。

「承久の乱」の勝利により、京方についた旧将軍独裁時代の勢力は没落し、義時の鎌倉幕府における、最高権力者としての地位が確立されました。

また義時の鎌倉政権が公家政権に対し、支配的地位となり朝廷と幕府の関係性は逆転しました。

こうして鎌倉幕府執権としての権力は全国的なものになっていきました。

晩年

「承久の乱」の翌年に役職を辞職した義時は、無官となりました。

貞応2年(1223年)になると、将軍御所の「大倉幕府」を拡張することが議論となりました。

承久元年12月に火災が起き「三寅」の邸宅とされた大倉御所と「北条政子」の邸宅である亡き「源実朝」の私邸が焼失しました。

「三寅」と政子は、共に大倉御所の東隣の義時邸にて生活し、義時は大倉御所の西の大路を挟んだ反対側にある在京中の子「北条泰時」に譲った邸宅に住んでいました。

義時はこの拡張計画に賛同し、政子を「勝長寿院」内に建てた御所に移すとともに、最終的に陰陽師の判断を理由として拡張計画を先送りにしてしまいました。

これは政子と「三寅」を引き離し、自らの「三寅」への影響力を強め、移転計画を利用して発言力を強めようとした「三浦義村」への牽制も兼ねていたとされています。

元仁元年(1224年)に入ると、義時は自身の健康長寿を願い3月19日から100日間の泰山君府祭を行いました。
4月27日には「九条兼実」の要望を受けて、「三寅」の手習始の儀を執り行い、義時は「一条実雅」と共に中心的役割を請け負うなど、精力的な活動を続けていました。

精力的に活動する中、6月13日、義時は62歳で亡くなりました。かなり急な出来事だったようです。

義時の別称は得宗と呼ばれていたことから、北条氏の嫡流の呼び名となっていきました。

「吾妻鏡」に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」とあったことから、近年「北条義時法華堂跡」の発掘調査が行われています。

義時の菩提寺は「建長寺」境内の「北條寺」にあり、子の第3代執権「北条泰時」が建てたものと伝えられています。

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