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「北条経時」~鎌倉第4代執権~

「北条経時(ほうじょう つねとき)」は、鎌倉幕府第4代執権を務めた人物です。(執権在職1242年~1246年)

父「北条時氏」の長男として生まれ、母は賢母で名高い「安達景盛」の娘「松下禅尼」で、第5代執権「北条時頼」や「北条時定」の同母兄にあたる。祖父は第3代執権の「北条泰時」です。

目次

生涯


父の「北条時氏」は寛喜2年(1230年)6月に若くして亡くなってしまいます。

「北条泰時」のもう一人の子である「北条時実」もすでに暗殺されてしまっていたため、孫の経時が後継者と目されていた。父の時氏がまだ生きていた嘉禄2年(1226年)には祖父の泰時の意向で「宇都宮泰綱」の娘と婚約しました。

寛喜2年(1230年)6月18日に父の時氏が亡くなると、経時は父が就任していた若狭守護職を務めています。

天福2年(1234年)3月5日に11歳で、第4代将軍の「藤原頼経」の御所において元服、理髪は「北条時房」が行ない、頼経の偏諱を賜り弥四郎経時と名乗りました。

「四郎」は「北条時政」や3代執権「北条泰時」と関係する名であり、正当な得宗嫡流であることを知らしめるためという、泰時の意思があったとされています。

仁治2年(1241年)6月28日、祖父の泰時より評定衆の一人に列せられ、8月12日には従五位上となります。

このころ、59歳の泰時は体調を崩し高齢であったため、経時を後継者として確立するために急いでいたと推測されています。

仁治3年(1242年)6月15日祖父「北条泰時」が亡くなると、6月16日に経時は19歳で執権となりました。
19歳という若年ということもあり、敵対勢力を抱えながら不安定な政権であったようです。

執権として

経時の政権は一族の「北条重時」ら重鎮が支える体制が取られ、その初期は穏やかであったようです。

執権就任後、経時は訴訟制度の改革を行ないました。
これにより手続きの簡素化、裁判の迅速さや正確性を向上させ、後の第5代執権「北条時頼」時代につくられた「引付衆制度」の基礎となりました。

訴訟制度のほかには、将軍の「九条頼経」を将軍職から解任しており、寛元2年(1244年)将軍「九条頼経」は27歳、その側近には「北条光時」や「三浦泰村」など反執権勢力による集団が形成され始めており、得宗家と対抗するようになっていたようです。

新将軍には頼経の子の「九条頼嗣」を擁立し、急ぎ元服させて烏帽子親は「北条経時」自らが務めています。

これにより経時が主導的立場であると示しました。

しかし、この後も前将軍となった「九条頼経」は鎌倉にとどまり、政治に関りました。
反対勢力による幕府における官位上昇、権力増強のための計画であったという説もあります。

4代執権の経時は三浦氏などとかかわりもあり、頼経との烏帽子など、関係性も無視できないものがあったためこれ以上の強硬手段はとれなかったようです。

このため寛元3年(1245年)7月26日、頼嗣に妹の檜皮姫を嫁がせました。
この結婚で経時の得宗家は頼嗣の外戚、将軍の後見役としての立場を得て、反執権派をひとまず押さえ込む事に成功しました。

晩年

経時は寛元3年(1245年)前後から体調を崩しはじめていました。
5月29日には黄疸を患い、一時的に回復するも病治癒のための祈祷などが行われました。

9月4日には正室の宇都宮泰綱の娘が15歳で死去。
9月27日、経時は病が再発して一時意識を失うなど騒ぎになりましたが、10月11日には「九条頼経」のために酒宴を行ったと「吾妻鏡」にあり、それ以前には回復していたようです。

このころから体調不良により、自身の代理として弟の「北条時頼」を立てています。

弟の「北条時頼」は、モンゴル帝国襲来を2度退けた第8代執権「北条時宗」の父親として知られています。

3月21日になると経時は危篤状態となりました。治癒を祈る仏事が行われるなどしました。

3月23日、経時の屋敷で「深秘の御沙汰」と呼ばれる重大秘密会議によって、経時の2人の息子が幼い事から、弟の「北条時頼」に執権職を譲渡することが決定されました。

「吾妻鏡」によると、3月27日、4代執権「北条経時」は出家の意思を「九条頼経」に伝えると出家して安楽と号したそうです。
そして4月1日に23歳という若さで亡くなりました。同時に宮騒動が発生しています。

菩提寺は鎌倉「光明寺」にあります。

幕府の執権職は、大勢の人間関係と大変な激務でストレスがあったのだと想像させられます。

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