「妙本寺(みょうほんじ)」は、日蓮宗開祖の「日蓮」に学んだ弟子の「日郎」によって開山され、創建は文応元年(1260)です。
初代鎌倉幕府将軍「源頼朝」や、第2代将軍「源頼家」に仕えた「比企能員」の屋敷があった場所として知られ、建仁3年(1203年)「比企能員の変」と呼ばれる事件によって、比企一族はそのほとんどが誅殺されてしまいました。
この時、鎌倉幕府第2代将軍「源頼家」の嫡男で、まだ幼かった「一幡」も討ち取られ亡くなってしまいました。
比企一族が誅殺された後年、生き残った「比企能員」の子、「比企大学三郎能本」が日蓮聖人や比企一族を弔うためにお堂を建てたとされています。
「妙本寺」の境内は、四季折々の花が咲き、4月には桜や海棠、7月にはノウゼンカズラなどが美しく咲き誇ります。
静かな境内は、鎌倉時代にあった騒乱を優しく忘れさせてくれるような静けさで、ネコが昼寝していたりと癒されます。
山門と比企谷幼稚園
「妙本寺」の境内へ続く山門、門の後ろ右手に見えるのは、「比企谷幼稚園」です。
境内にある幼稚園・・・筆者の幼稚園は、神社が経営していたので何だか懐かしく感じてしまいました。
境内で身体を動かして遊べるので最高ですね!見学していたら幼稚園帰りの母子が散歩していました。
二天門
先程の「山門」をくぐり抜けていくと、仁王が鎮座する「二天門」がお出迎えしてくれます。
「二天門」は日蓮宗のお寺によく見かける気がします・・・大田区池上の日蓮宗「池上本門寺」にも「二天門」がありますね!
手水舎
何気に手水舎を撮影するのが好きなのですが、龍神様が安置されている手水舎は撮っていて楽しいですね。
「葛原岡神社」の手水舎の龍神様も良い感じなのでぜひ見てみて下さいね!
祖師堂
「山門」から「二天門」をくぐり抜けると、凄い広さの広場があり、その中心に「祖師堂」があります。
先程も紹介させていただいた「池上本門寺」も似たつくりになっています。
日蓮宗の大きな寺院はこのような構造のお寺が多いですね!
「祖師堂」には、「日蓮」、「日朗」、「日輪」と歴代の日蓮宗を代表する僧侶たちが祀られています。
「妙本寺」は「日郎」によって創建されましたが、現在の建物は創建当時のモノではなく、天保年間(1830~1843年)に、第四十七世「日教」によって再建されたものなのだそう。
日蓮聖人像は、開祖である日蓮がまだ生きている内の姿を参考にしたものとされ、「身延山久遠寺」と「池上本門寺」との日蓮宗の大きな拠点とされる寺院にある、一本の木から彫り出した「一木三体の像」の一つとされるています。
また、9月12日には「龍口法難会」が行われており、年に一度の特別開帳が実施されています。
「妙本寺」付近は、比企ヶ谷と呼ばれ、山門近くにある「比企ヶ谷幼稚園」などにその地名が残されています。
比企ヶ谷という名前の由来は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」が流人時代の頃に世話になった乳母「比企尼」を鎌倉に呼び住まわせたことから、比企ヶ谷と呼ばれるようになったとされています。
方丈
「妙本寺」の方丈です。「山門」から真っ直ぐ境内へ向かわず、「山門」に向かって左側に「方丈」へ向かう階段があります。
「方丈」は、元々お坊さんが説法などを行っていた場所でもありますが、現在で集会所や行事を執り行う場所としても使われています。
比企一族供養塔
「妙本寺」には、比企一族のお墓があります。
鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」や、2代目将軍「源頼家」に仕えた「比企能員」が、鎌倉幕府執権として権力を握っていく、北条氏と政争を起こし誅殺されてしまった場所でもあります。
「北条時政」や「北条義時」らと争ったため、比企氏の一族は第2代将軍「源頼家」の嫡男「一幡」とともにそのほとんどが滅ぼされていしまいました。
一幡の袖塚
「比企能員の変」で、比企一族のほとんどが誅殺される中、幼かった頼家の子「一幡」も亡くなってしまいます。
事件が起きた時、当主「比企能員」が誅殺されたと知らせを受けた比企一族は、「一幡」の屋敷に立てこもって戦ったとされます。
追い詰められた一族は、屋敷に火を放ち「一幡」を囲んでそのほとんどが自害とされ、「一幡」も焼死してしまい焼け跡から衣服の切れ端を乳母が確認したと伝えられています。
「比企能員」の嫡男「余一兵衛尉」は女性に変装し逃げようとしましたが、逃げ切れず捕らえられ誅殺されたとされ、他の親族達もことごとく討ち取られてしまいました。
竹御所の墓・新釈迦堂跡・蛇苦止堂
「妙本寺」には、鎌倉幕府第4代将軍「藤原頼経」の妻となった「竹御所」のお墓と、第2代将軍「源頼家」の妻「若狭局」が亡くなったとされる場所に建てられた「蛇苦止堂(じゃくしどう)」があります。
「竹御所(源頼家の娘)」は、「比企能員」の末子であった「比企能本」の姪だった女性です。
鎌倉幕府第4代将軍の妻となった「竹御所」は、1234年(文暦元年)に子供を出産しますが、出産と同時に亡くなってしまいました。
この時、自仏像としていた「釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)」を祀るため、「新釈迦堂」の建立を遺言し亡くなったとされています。
この遺言から、1235年(嘉禎元年)「新釈迦堂」が建立され、「竹御所」はお堂の下に葬られたとされますが、現在では「竹御所」のお墓だけが残されています。
「竹御所」のお墓へ行く途中には、「佐竹常元」ら主従13人のお墓とされる「佐竹やぐら」があります。
また「蛇苦止堂(じゃくしどう)」については、「比企能員の変」で一族の屋敷が焼け落ちる中、頼家の子「一幡」の母「若狭局」は家宝を抱えて井戸に身を投じたと伝えられています。
「蛇苦止堂」のすぐ近くにある井戸に身を投げたとされ、「蛇苦止の井」と呼ばれています。
「蛇形の井(じゃぎょうのい)」という名でも呼ばれ、今でも若狭局が蛇に姿を変えて家宝を守り続けているとおい伝説があります。
井戸には御簾が掛けられ、中の様子はうかがえません・・・こういう所に故人に対する気遣いが洗われているようで胸が打たれます。
「蛇苦止堂(じゃくしどう)」には伝説が残されていおり、比企一族滅亡から、約60年後、第7代鎌倉幕府執権を務めた「北条政村」の娘に、この井戸を巡って奇怪な事件が起こります。
史書「吾妻鏡」の記載によれば、文応元年(1260年)十月小の条に記録が残されています。
相州〔政村〕の息女邪気を煩ひ、今夕殊に悩乱す。比企判官の女(むすめ)讃岐局が霊が祟をなすの由、自詫(じたく)に及ぶと云々。件の局は大蛇となりて頂に大きなる角有り。火炎の如く、常に苦を受く。当時比企谷の土中に在るの由、言を発す。これを聞く人、身の毛が堅(いよだ)つと云々。
「北条政村」の娘が悪霊に取りつかれたようで、この夜は特に苦しみ、比企判官(比企能員)の娘「讃岐局(さぬきのつぼね)」の霊が「北条政村」の娘に祟りをなしているということを、取りついた霊が言った。
霊となった「讃岐局」は大蛇となり、頭に大きな角があり、炎に焼かれるような苦しみがいつもあって、今も比企ヶ谷の土中にあると言う。これを聞いた人々は身の毛がよだつ思いであった。
見どころまとめ
鎌倉「妙本寺」は、かなり大きな規模のお寺ですが、鎌倉でも静かな大町のエリアにあり静寂に包まれています。
静けさのある境内には、「比企能員の変」で亡くなった、比企一族の墓などがあり、当時の鎌倉の政争や歴史が感じられます。
そんな、鎌倉で起きた争いの歴史を感じつつも、静かな境内が心を穏やかな気持ちにさせてくれます。
「鶴岡八幡宮」などの華やかな鎌倉観光以外も楽しんでみたい方は、「妙本寺」オススメです!
- 「山門」から「二天門」までの、木々が立ち並ぶ参道はマイナスイオンたっぷりで癒されます。
- 「祖師堂」と目の前の大きな広場は、気持ち良い風が吹いて気持ちが良い!
- 「比企一族」や「竹御所」のお墓、「一幡の袖塚」と「蛇苦止堂」では手を合わせて供養すべし
- 鎌倉大町エリア特有の静かな雰囲気が素敵
鎌倉「妙本寺」基本情報
名称 日蓮宗 霊跡本山 比企谷 妙本寺
山号 長興山
創建年 1260年(文応元年)
住職 鈴木日敬(第八十二世)
住所 〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町1-15-1 アクセスマップ>>
電話番号 0467-22-0777交通・アクセス
日蓮宗本山「妙本寺」ホームページより
JR東日本 横須賀線鎌倉駅から徒歩8分
江ノ島電鉄 鎌倉駅から徒歩8分
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