「北条実時」~金沢文庫の創設者~

北条実時の肖像画

「北条実時(ほうじょうさねとき)」は、父「北条実泰」と「天野政景]の娘を母として生まれました。

金沢流北条氏の実質初代で祖となった人物です。「金沢実時(かねさわさねとき)」とよばれることもあります。

目次

生涯

天福元年(1233年)、10歳になると得宗家の当主であり、鎌倉幕府第3代執権「北条泰時」の屋敷において元服しました。
烏帽子親も務めた泰時から「時」の字を受けて実時と名乗っています。

翌文暦元年(1234年)に出家し引退した父の実泰から小侍所別当を任されます。
このとき、あまりに若い年齢であったことを理由に反対の声があがるも、第3代執権「北条泰時」はこれに同調せず、実時を起用しています。

このころ泰時の嫡男「北条時氏」、次男「北条時実」が相次いで亡くなっており、時氏の息子「北条経時」が得宗家の家督を相続することになっており、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図ったとされます。

泰時は2人に対し「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言い含めていたと「吾妻鏡」に記載があります。
以後3度、同職を務めています。

第4代執権「北条経時」、第5代執権「北条時頼」の幕政を支える側近として引付衆や評定衆を務めました。

文永元年(1264年)、得宗家外戚の「安達泰盛」と一緒に越訴頭人として幕政を補佐し、第8代執権「北条時宗」をバックアップするため寄合衆にも加わるなどしました。

モンゴル帝国が襲来した「文永の役」の翌建治元年(1275年)には政治の中枢から引退しています。
六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)に邸宅を構え住んでいました。

蔵書を集めて「金沢文庫」を創設し。翌建治2年(1276年)に53歳で亡くなっています。

教養のあった人物で、明経道の「清原教隆」に師事して法制や漢籍など学問、舅で第7代執権も務めた「北条政村」からは和歌など王朝文化を学びました。

「源光行」、「源親行」父子が校訂した河内本「源氏物語」の注釈書を編纂するなど文化人としても活動し、子の「北条実政」への訓戒状も知られています。

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