「北条貞時(ほうじょう さだとき)」は、北条得宗家、鎌倉幕府第9代執権(在職期間:1284年~1301年)を務めた人物です。
第8代執権「北条時宗」の嫡男として生まれました。母は「安達義景」の娘で「東慶寺」の住持としても知られる「堀内殿(覚山尼)」
生涯
文永8年12月12日(1272年1月14日)「北条時宗」の嫡男として鎌倉に生まれました。
建治3年(1277年)12月2日に元服して貞時と名乗ります。この時の様子は「建治三年記」の同日付に得宗家嫡男の元服の貴重な記録として残されています。
弘安7年(1284年)4月、父「北条時宗」が病死し13歳(満12歳)で第9代執権に就任しました。
しかし、8月には「北条光時」の陰謀事件が起こるなど、貞時の執権初期は安定しない政権となっていました。
これは貞時に兄弟がおらず、また父、時宗の実弟で叔父の「北条宗政」など有力親族が早世していたために幼い貞時を支える人物がいなかったためとされています。
幕政は貞時の外祖父「安達泰盛」が中心となり運営されました。
泰盛の施策は北条得宗家の権力を削減し御家人らの既得権益にも手を付けたため幕府内で孤立していきました。
このため得宗家執事(内管領)で貞時の乳母の夫だった「平頼綱」をはじめとする反安達勢力との対立は深まっていきました。
弘安8年(1285年)11月17日、「平頼綱」の讒言により泰盛を討伐する命が下されました(霜月騒動)。
これにより「安達泰盛」派は一掃され、「平頼綱」が実権を掌握しました。
正応2年(1289年)には将軍「惟康親王」を退け、「久明親王」を将軍としました。
「霜月騒動」以降「平頼綱」は貞時を補佐し御家人保護を全面に出す事で権力基盤としていました。
泰盛派の生き残りである「宇都宮景綱」ら有力御家人らの反勢力による不満は日に日に大きくなり、頼綱は苦肉の策として、強圧的な政治を展開しました。
強権的な政治は貞時からも見切りをつけられることになり、正応6年(1293年)4月22日、貞時は「平頼綱」一族を鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じて誅殺しています(平禅門の乱)。
実権を取り戻した貞時は、一門の「北条師時」や「北条宗方」らを抜擢し、また「霜月騒動」で追放されていた金沢北条家の「北条顕時」らを呼び戻しました。
父「北条時宗」時代と同じく、得宗家主導の専制政治を目指しました。
10月には引付衆を廃止して「北条顕時」、「北条師時」、「北条宗宣」、「長井宗秀」、「宇都宮景綱」、「北条時村」、「北条公時」ら7名を新設した執奏に任命し訴訟制度改革を行いました。
元寇後にも薩摩沖に外国の船が出現するなどの事件もあり、永仁4年(1296年)には鎮西探題を新たに設置し、西国の守護を主に北条一族などで固め、西国支配と国防の強化を行なっています。
さらに、元寇で多大な軍費の出費によって苦しんでいた中小御家人を救うべく永仁5年(1297年)に「永仁の徳政令(関東御徳政)」を発布しました。これにより借金をしにくくなるという事態を招き、かえって御家人を苦しめました
晩年
正安3年(1301年)、鎌倉に彗星が飛来(現代のハレー彗星とのこと)、これを凶兆と考えた貞時は出家を決意し、執権職を従兄弟の「北条師時」に譲り出家した、幕府内に政治力を保った隠居であったようです。
嘉元3年(1305年)4月22日、貞時は鎌倉の邸宅が火災により焼失し、「北条師時」の館に移ると、その翌日、内管領の「北条宗方」によって貞時の命令として連署の「北条時村」が殺害される事件が起こっています。
貞時は5月2日、時村殺害は誤りとして「五大院高頼」らを誅殺、5月4日には宗方を誅殺しています。(嘉元の乱)
執権の師時と宗方の対立、さらに得宗の貞時と長年冷遇されていた「北条宗宣」の対立が背景にあったとされています。
また幼い息子である「北条高時」を補佐させるため「長崎円喜」や「安達時顕」を抜擢し、両名を補佐役としました。
延慶2年(1309年)1月に高時は元服しています。
このころから多くの政治問題を抱え、息子2人を亡くしていた貞時は政治に関心を向けなくなっていったとされています。
御内人の「平政連」から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出されています(平政連諫草)。
応長元年(1311年)9月22日には執権の「北条師時」が亡くなっています。
「嘉元の乱」で貞時と対立した「北条宗宣」が執権に就任し、貞時晩年の政権では得宗権力の弱体化が進み、貞時が築いてきた得宗専制の体制は崩壊していきました。
しかし、貞時が政務を放棄しても長崎氏や外戚の安達氏、その他の北条氏などのが主導する寄合によって幕府は機能し、得宗家は装飾的な地位となっていきました。
貞時は10月26日(1311年12月6日)に41歳でなくなっています。「北条師時」が亡くなって約1か月後のことでした。
菩提は北鎌倉・山ノ内の「円覚寺」の塔頭で、父「北条時宗」も葬られている「佛日庵」です。貞時の木像も納められています。
子の「北条高時」は僅か9歳で得宗家の家督を継ぎましたが、貞時の晩年に得宗の地位は形骸化しており、政治に深く携わることもなく、元弘3年(1333年)の「元弘の乱」により、幕府滅亡を迎えています。
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