「安達義景(あだちよしかげ)」は、父「安達景盛」の嫡男として生まれました。
子に第8代執権「北条時宗」を支えた「安達泰盛」、時宗の妻となった「覚山尼」などがいます。
生涯
義景は父の景盛、子の泰盛と違い「盛」の字が使われず、「景」の字と「義」の字が使われています。
「義」の一字は元仁元年(1224年)に亡くなった鎌倉幕府第2代執権「北条義時」からの拝領したものと考えられており、この時義景は15歳でした。少なくとも義時が亡くなる晩年頃に拝領したと推測されます。
義時が亡くなると、鎌倉幕府第3代執権「北条泰時」から第4代「北条経時」と第5代「北条時頼」三代にわたり仕え、評定衆に加わり重用されました。
幕府での権力は北条氏、三浦氏に次ぐ地位にあったようで、第4代将軍「藤原頼経」からの重用され、将軍御所において和歌会にも参加しています。
この頃の幕府内における将軍や執権、御家人有力者といった権力者たちの関係は緊張状態にあったとされ、将軍派であった三浦氏と、得宗北条家の縁戚として政治を支える安達家との関係は微妙なものであったとされます。
父「安達景盛」は既に出家していましたが、将軍頼経が上洛の年、義景は秋田城介を継承しています。この時29歳でした。
仁治3年(1242年)、第3代執権「北条泰時」の意向を受け「嵯峨天皇」の擁立を行っています。
寛元4年(1246年)の「宮騒動」において、第五代執権「北条時頼」と計画を立て、反得宗派の「北条光時」らの追放に携わっています。
このころ、将軍派の三浦氏と執権「北条時頼」の対立は溝が深くなっており、執権を務める得宗北条氏の外戚の地位を巡る三浦氏と安達氏の対立も激化していました。
この対立騒動に業を煮やしていた父の景盛は、出家し高野山にいたにも関わらず鎌倉に戻り、義景を叱責したと言います。
「宝治合戦」が始まると、嫡男の泰盛とともに先陣を切り三浦氏を滅ぼしています。
晩年
鎌倉幕府5代「北条時頼」による権力を得宗家に集めた「得宗専制」の体制作りに尽力した義景の地位は一気に向上し、時頼の嫡子「北条時宗」は義景の姉妹「松下禅尼」の屋敷(現在の甘縄神明社あたりといわれています。)において生まれました。
「北条時房」の娘を正室とし産まれた娘は後に第8代執権「北条時宗」の正室となった「覚山尼」です。
その他幕府に使える有力御家人の長井氏、二階堂氏、武藤氏などとも縁戚関係を築いています。
建長5年(1253年)5月に出家した翌年の6月に44歳で亡くなっています。
父の景盛と義景から向上し続けた安達氏の地位は、子の泰盛の代に絶頂期となり、第8代執権「北条時宗」の幕政を支え活躍しました。
コメント