「三浦義澄(みうらよしずみ)」は、三浦半島を拠点としていた三浦氏の一族で、「三浦義明」の次男として生まれ、「源頼朝」死後に設置された「十三人の合議制」の一人に選出された人物です。
生涯
平治元年(1159年)の「平治の乱」が起こると源氏側に付き「源義平」に従い平家と戦いますが敗れています。
長寛2年(1164年)には、兄の「杉本義宗」が死去したため、三浦氏の当主となりました。
治承4年(1180年)、伊豆に流罪となっていた「源頼朝」が平家追討の挙兵をすると参戦しようとするも、大雨により反乱した川を渡ることが出来ず、頼朝と合流することが出来ないまま「石橋山の戦い」で頼朝軍は敗れてしまいました。
合流できないまま引き上げる途中、後に源氏側に付くことになる平家側の「畠山重忠」と遭遇したことにより「衣笠城合戦」へと発展し、父「三浦義明」が一人城に籠り討ち死にを遂げています。
その後、頼朝と合流し安房国(現在の千葉県)に入り、鎌倉へと向かう事となりました。
義澄の妻の父である「伊東祐親」は平家に味方していたため捕らえられると、その身柄を預り頼朝に許しを請い許可されました。
しかし、平家に味方していた「伊東祐親」は自らの娘と頼朝の間に出来た子を殺した事を恥じ自害を遂げてしまいました。
「千葉常胤」、「上総広常」、「土肥実平」らが頼朝に評価され宿老となる中、義澄も宿老に選出されています。
「一ノ谷の戦い」から、平家が最期を遂げる「壇ノ浦の戦い」、頼朝と対立した「源義経」を匿った奥州藤原氏との「奥州合戦」などで活躍し手柄を上げています。
建久元年(1190年)に頼朝が京へ上った際には、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選出され、御家人10人の成功推挙でもその1人に入りましたが、自らは受けずに子の「三浦義村」に受賞させています。
正治元年(1199年)、頼朝が亡くなると、第2代将軍「源頼家」を補佐するため設置された「十三人の合議制」の一人となりました。
三浦一族の「和田義盛」もこのうちの一人となっています。
「梶原景時の変」が発生すると「梶原景時」の弾劾、追放に加担し景時ら一族が粛清された3日後に病によって74歳で亡くなっています。
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