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「安達景盛」~将軍実朝・政子の側近として活躍した~

「安達景盛(あだちかげもり)」は、「安達盛長」のとして生まれ、「源実朝」や「北条政子」を支える側近として活躍し、鎌倉幕府内での安達家の地位を向上するなど権力の地盤を築いた人物です。

目次

生涯

「安達盛長」は鎌倉幕府初代将軍となった「源頼朝」が伊豆に流されていた時から側近を務め、幕府創設の功労者でした。

頼朝死後に跡を継いだ第2代将軍「源頼家」と景盛の仲は良くなかったようで、頼朝が亡くなってから、正治元年(1199年)7月~8月頃、頼家の命令を受けた「中野能成」や「和田朝盛」、「比企宗員」、「小笠原長経」らの御家人から、留守中に愛妾を奪われ誅殺されようとした所を、頼朝の正妻「北条政子」に救われるという事件が「吾妻鏡」に記載されています。

「吾妻鏡」は鎌倉幕府執権など権力の中枢にいた北条家が編纂したもので、この事件を記載することにより、頼家の横暴を際立たせることにより、「源頼朝」、「北条政子」から続いた北条氏と安達氏の結束、景盛の母の実家である比企氏と結びつきの強かった頼家の勢力から安達氏が離れれることを正当化するための意図があったと推測されています。

建仁3年(1203年)9月、「比企能員の変」で比企一族が誅殺されると、頼家は将軍職を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉され、翌年7月に北条氏の刺客によって暗殺されています。
この時頼家は、浴室で襲われたとする説があります。

景盛と同じ「丹後内侍」を母に持つ、異父兄弟の「島津忠久」は、比企一族が誅殺されたとき所領を没収されましたが、景盛は連帯責任を取らされることなく、新たに擁立された「千幡(源実朝)」の元服式に名を連ねています。

比企氏の縁戚であるにも関わらず裏切った景盛に対する頼家の恨みは並々ならぬものがあったようで、幽閉されてすぐの11月、母の政子へ送った書状には、景盛に対し厳罰を処すことを訴えています。

第3代将軍「源実朝」の側近として

第3代将軍「源実朝」の代には実朝や政子から信頼されており側近を務めました。
元久2年(1205年)に起きた「畠山重忠の乱」では友でもある重忠討伐の先陣を切って戦い、「牧氏事件」の後に新たに執権となった「北条義時」の屋敷で実行された「平賀朝雅(景盛の母方従兄弟)」誅殺をはじめ、「宇都宮朝綱」謀反の疑いを評議する席などに加わっている。

建暦3年(1213年)の「和田義盛」ら和田一族を滅ぼした「和田合戦」など、「源頼朝」時代からの有力御家人が粛清されていく中、景盛は幕政の中心となる御家人の一員となる。
建保6年(1218年)3月に実朝が右近衛少将に任じられると、実朝はまず景盛を御前に召して秋田城介への任官を伝えている。

景盛が秋田城介へ任官できた裏側には、景盛の姉妹が「源範頼」に嫁いでおり、範頼の養父が「藤原範季」でその娘が「順徳天皇」の母となっている事や、実朝夫人の兄弟である「坊門忠信」との繋がりがあったと考えられる。

所領に関しては「和田合戦」で「和田義盛」の所領であった武蔵国長井荘を授与され、平安末期から武蔵方面に縁族を有していた安達氏は、景盛が秋田城介へ任命されたころから武蔵~上野~出羽方面に盤石な勢力を築きました。

翌建保7年(1219年)正月、実朝が暗殺されると、その死を悲しんだ景盛は、「大蓮房覚智」と名乗り高野山に入りました。
実朝の菩提を弔う「金剛三昧院」を建立すると高野入道と呼ばれるようになりました。

出家後も高野山に居ながらも幕政に関わり続け、承久3年(1221年)に起きた「承久の乱」に際しては幕府首脳部一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍と呼ばれるようになった「北条政子」が御家人たちへ向け夫である「源頼朝」から続く恩顧を訴えた時、朝廷討伐を命ずる演説文を景盛が代読しました。

「北条泰時」が大将を務めた東海道方面の軍に参加し、事後は摂津国の守護となり、嘉禄元年(1225年)政子が亡くなると高野山に籠もるようになりました。
「承久の乱」後に鎌倉幕府第3代執権となった「北条泰時」とは緊密な関係にあり、泰時の嫡子「北条時氏」に娘(松下禅尼)を嫁がせ、生まれた外孫の「北条経時」「北条時頼」が続けて執権となった事から、景盛は外祖父として幕府での権勢を強めた。

宝治合戦~晩年

宝治元年(1247年)、鎌倉幕府第5代執権となった「北条時頼」と有力御家人三浦氏の対立が激しくなっていました。
これに対し景盛は、老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に向かいました。

景盛は三浦打倒の強硬派であり、「吾妻鏡」の記載には「三浦一族、傍若無人の勢い」と激怒し、三浦氏の風下に甘んじる子の「安達義景」や孫の「安達泰盛」を叱責したとあります。

執権の「北条時頼」は三浦氏との和解する道を探しており、景盛は連日時頼に直談判していたとされますが、時頼が三浦氏を滅ぼす行動は起こさず、景盛は思い通りにならないことに業を煮やし息子や孫に八つ当たりをしたと「吾妻鏡」の記載から推測されます。

景盛は三浦氏を滅ぼすつもりのなかった執権「北条時頼」を説得して一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして「宝治合戦」に持ち込んだとされます。
この戦いにより三浦一族500余名は滅亡してしまいました。

景盛の工作として、5月21日に三浦氏を糾弾する趣旨の立札が設置されるなどし、安達氏の策謀の一環だと推測されています。
安達氏は「源頼朝」のころより将軍の側近を務めましたが、あくまで個人的な従者であって家格は低くかったとされ、頼朝以前から源氏に仕えていた大豪族の三浦氏など有力御家人からは格下として軽んじられていたとされます。

また「三浦泰村」は「北条泰時」の女婿であり、執権北条氏の外戚の地位を巡って対立する関係にあったとされます。
景盛はタイミングを逃せば安達氏の立場が失墜することを恐れていたと推測され、以前から対立していた三浦氏を排除したい北条氏の思惑と一致し「宝治合戦」が引き起こされたとされています。

「宝治合戦」により、北条氏は鎌倉幕府創設からの大きな勢力だった三浦氏を排除することにより他の御家人たちより優位をな立場となり、このため同盟者としての安達氏の権力も高まって行きました。
幕府内における安達氏の地位を確かなものとした景盛は、「宝治合戦」の翌年宝治2年(1248年)5月18日、高野山で没しています。

この後も、第8代執権「北条時宗」時代に孫の「安達泰盛」が幕政の中心人物となるなど活躍しました。

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