「畠山重忠」~知勇兼備の武将・頼朝の挙兵により源氏側で活躍~

畠山重忠の肖像画

「畠山重忠(はたけやましげただ)」は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」に付き従い平家討伐などに活躍した武将です。

子に「畠山重保」、「畠山重秀」などがいます。

目次

生涯

重忠は父「畠山重能」の子として生まれ、父に付き従い元々は平氏の武将として仕えていました。

やがて頼朝に付き従うようになり治承・寿永の乱などで活躍し、鎌倉幕府の創成期を支え知勇兼備の武将として尊敬されましたが、後に鎌倉幕府初代執権「北条時政」らによって謀殺されてしまいました。

平家から源氏サイドへ

「源頼朝」に付き従って活躍した武将として知られる重忠ですが、父「畠山重能」と共に平氏側に所属していました。

頼朝が平氏討伐の挙兵を行った初期は、平氏側として参戦しましたが途中から頼朝陣営に加わるため合流を試みますが、ちょうど「石橋山の戦い」で頼朝軍が敗北したためスムーズに合流できなかったとされます。

この時、三浦氏と遭遇し戦いとなってしまい双方い被害を出しています。

その後、「河越重頼」、「江戸重長」らと合流し三浦氏の本拠地だった衣笠城に攻め込んでいます。

これにより三浦一族は城を捨てて逃亡しますが、城に独り残った母方の祖父「三浦義明」を討ち取ったとされています。(衣笠城合戦)

重忠は御家人となり、頼朝の「大倉御所」への移動、「鶴岡八幡宮」の参詣の警護などを行ったと史書「吾妻鑑」に重忠の名が記載されています。

養和元年(1181年)には、「鶴岡八幡宮」の社殿改築の上棟式で工匠に馬を与えた際に、頼朝の弟「源義経」とともに馬を曳いたとされています。

この頃に重忠は頼朝の舅の「北条時政」の娘を妻に迎えましたが、未だに父の重能が平氏側に所属していたこともあり完全には信頼を得ていなかったともされます。

源義仲との戦い~平家討伐などで活躍

寿永2年(1183年) に京都から平氏を追い出し権威を振るっていた「源義仲」と頼朝が対立し戦いに発展しています。

この時重忠は、「源義経」の軍に所属し参戦し活躍しています。

寿永3年(1184年)正月 に宇治川で起きた合戦で、重忠は500騎を率いて宇治川を渡河しようとしますが馬を弓で射られ徒歩で渡り切ります。

この時「大串重親」も宇治川へ投げ出されますが、怪力の重忠に岸へ投げ飛ばしてもらったことにより一番乗りの戦功を立てたと言います。

これにより「大串重親」は敵味方の笑いものになったと「平家物語」や「源平盛衰記」などの史書に記述があります。(重親としてはメチャクチャ災難ですよね・・・笑)

「平家物語」や「源平盛衰記」 の記載によると、入京した重忠は義経らとともに後白河法皇に御簾越しに拝謁して名乗りを上げたとも、三条河原で義仲の愛妾「巴御前」と戦い、巴の鎧の袖を引きちぎり「巴御前」を打ち払ったともされています。

さらに平氏討伐での戦いでは「源範頼」の軍に所属し大手に属して戦ったともされていますが詳しくは分かっていません。

元暦2年(1185年)3月、「源義経」らの活躍によって「壇ノ浦の戦い」において平家は滅亡しています。

幕府創成期を支える

平氏が滅亡すると「後白河天皇」の暗躍などにより義経ち頼朝の関係が悪化したことにより、義経は京で挙兵しますが上手くいかず逃亡しています。

この時、義経の舅の「河越重頼」は連座し責任を負い処刑され、重頼の役職を重忠が継承しています。

文治2年(1186年)、義経の妾「静御前」が披露した舞で、重忠は銅拍子を打って伴奏を務めたとされます。

文治3年(1187年)、重忠が地頭に任ぜられた伊勢国沼田御厨の地で代官が狼藉をはたらき、重忠は責任を負い「千葉胤正」の元に預けられる事件が起き、恥じた重忠は絶食したと言います。

頼朝は重忠を許しましたが、頼朝の重臣であった「梶原景時」が謀反の疑いありと讒言したとされ、頼朝は重臣を集めて重忠を討つべき苦悩します。

「小山朝政」が重忠を弁護したため、「下河辺行平」が使者として重忠に事情を聴取死に向かいましたが、重忠は悲憤し自害しようとしたため、行平は鎌倉で申し開きするよう説得したのだと言います。

「梶原景時」は、取り調べの中、起請文を差し出すよう重忠へ促しましたが「自分には二心がなく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要はない」と言い張り、これを頼朝は咎めず重忠と行平を召して褒美を与えて帰したとされています。

文治5年(1189年)の「奥州合戦」で先陣を務め活躍し、「阿津賀志山の戦い」に勝利し、「藤原泰衡」は平泉に火を放ち逃亡したため奥州藤原氏は滅亡しています。

建久元年(1190年)に頼朝が京へ上った際、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をしたとされています。

正治元年(1199年)正月、頼朝が死去する際、重忠は子孫を守護するように遺言を受けたと言います。

同年10月、「結城朝光」が「忠臣は二君に仕えず」と発言したのを「梶原景時」が鎌倉幕府第2代将軍「源頼家」を誹謗したと非難した際「三浦義村」、「和田義盛」らは変え時に対し怒り、景時弾劾の連判状が66名の署名によって作られ、重忠もこれに名を連ねています。

これにより「梶原景時」は鎌倉を追放され、翌正治2年(1200年)には追っ手に討ち取られ滅亡しました。(梶原景時の変)。

建仁3年(1203年)の北条氏と比企氏の争いで発生した「比企能員の変」では、北条氏に味方して比企氏一族を滅ぼしています。

「源頼家」は伊豆で幽閉され謀殺され、第3代将軍に弟の「源実朝」が就いたことにより執権の「北条時政」が実権を握っって行きました。

畠山家の滅亡

畠山重保の墓

元久元年(1204年)11月、重忠の息子の「畠山重保」が「北条時政」の後妻「牧の方」の娘婿「平賀朝雅」と酒席で争ったとされ、これを「牧の方」が根に持ったことにより、北条家と畠山家の関係は悪化し、「北条時政」らによって第3代将軍「源実朝」の命令が引き出されると、重忠討伐の軍が起こされる事態に発展しました。

この時、「北条時政」の息子「北条義時」らが重忠が忠臣であることから討伐を反対したと史書「吾妻鑑」に記載がありますが、「吾妻鑑」は執権北条家によって、重忠討伐より後の「北条時政」追放を正当化するために記述されたのではないかと言う説もあります。

6月22日、鎌倉にいた重忠の息子「畠山重保」は謀略をもって殺され、重保の墓とされる宝篋印塔が「鶴岡八幡宮」一の鳥居近くに残されています。

この時、重忠は「鎌倉に異変があるので駆けつけるように。」との虚偽の命を受けて少ない軍勢を連れ鎌倉へ急行したとされます。

武蔵国二俣川において、「北条義時」を大将とする大軍が待ち構えているコトを知り重忠は覚悟を決め、義時の大軍を相手に良く戦ったとされ、「愛甲季隆」に射られて討ち死にしたとも、京都側から書かれた史書「愚管抄」では重忠は自害したともされています。

重忠が亡くなった時、42歳だったと言います。

重忠の死後

「北条時政」らによって、重忠の義弟の「榛谷重朝」父子、重忠謀反を訴えた「稲毛重成」も殺害され、人望のあった重忠を殺したことによって、「北条時政」と後妻「牧の方」に信用は失墜し、やがて「牧氏事件」が発生すると、伊豆国へ追放され、「平賀朝雅」は殺されてしまいました・・・因果応報ですね(汗)

埼玉県比企郡嵐山町には重忠の居館だった場所という「菅谷館」の跡に空堀や遺構が残されていますが、現在残る遺構は戦国時代の後北条氏のものなのだそうです。

三浦氏と戦った「衣笠城」近い神奈川県三浦郡葉山町には、標高205mほどの山があり畠山と呼ばれているそうで、この山は衣笠城攻めで重忠が布陣した場所と伝えられてます。

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