「北条時頼(ほうじょう ときより)」は、1246年~1256年に鎌倉幕府第5代執権を務め、最明寺殿、最明寺入道などとも呼ばれていました。
「北条時氏」の次男として生まれ、時頼の子には「北条時輔」第8代執権「北条時宗」「北条宗政」「北条宗頼」がいます。
墓所が北鎌倉・山ノ内の「明月院」にある他、鎌倉五山第一位「建長寺」を開山しています。
1257年には、「銭洗弁天」でお金を洗い北条家の繁栄無事を祈ったとの記録も残っています。
生涯
若いころに父親の「北条時氏」と死別し、祖父であった「北条泰時」に育てられ、嘉禎3年(1237年)4月22日11歳で元服し、征夷大将軍「九条頼経」から「頼」の字を賜ると、五郎時頼を名乗りました。
同じ年、祖父「北条泰時」によって「鶴岡八幡宮」における放生会で流鏑馬を行っています。
幼いころから聡明であったとされ、祖父の泰時からその才を高く評価されていました。
「吾妻鏡」によれば、時頼が12歳の時、三浦氏と小山氏による乱闘の際、兄の「北条経時」は三浦氏に肩入れしたが、時頼は中立を貫いたとされます。
兄の経時は祖父の泰時から軽率な行動を指摘され、中立を守った時頼は称賛されたと言います。
1242年に祖父の「北条泰時」が死去し、兄の経時が後を継ぎ執権となりました。
この頃より、経時が病気となり重篤になって行き、1245年になると時頼は「鶴岡八幡宮」の大鳥居の検分を行っています。
病の進んでいた経時の代理として、時頼は執権の職を兄に代わり代行していたと思われます。
1246年になると経時の病状は進行し、一門、重臣達による、「神秘の御沙汰」と呼ばれる会議が行われると時頼は兄「北条経時」から執権職を引き継ぎました。経時の子は、まだ幼なかったことから時頼に執権を譲ったと推察されています。
その後経時は出家しましたが、程なく病により亡くなっています。
執権として
幕府の政治の中枢にある評定衆であった「三浦泰村」「毛利季光」などは、時頼を支持していなかったようです。
時頼が執権職に就いて1ヵ月後、前将軍「藤原頼経」ら反北条勢力が勢いが盛り上がると、寛元4年(1246年)5月、「藤原頼経」の側近であり北条氏の一族であった「名越光時」(北条義時の孫)が頼経を擁して軍事行動を準備する事態が発生しました。
時頼はこの動きを鎮圧するとともに「藤原頼経」を京都に強制送還しました(宮騒動)。
この一連の騒動を鎮圧により、時頼は執権としての地位を固めました。
宝治元年(1247年)には安達氏と協力して、有力御家人であった「三浦泰村」の一族を滅ぼしています(宝治合戦)。「三浦一族のやぐら」が残されています。
さらに「千葉秀胤」も上総国で滅ぼしています。
こうして幕府内の反北条氏傾向の御家人は排除され、北条氏の独裁が強まりました。
その他、六波羅探題「北条重時」を空位になっていた連署に迎え、後に重時の娘・葛西殿と結婚し「北条時宗」「北条宗政」を儲けました。
建長4年(1252年)第5代将軍「藤原頼嗣」を京都に追放すると、次の将軍に後嵯峨天皇の皇子である「宗尊親王」を迎え、親王将軍が始まりました。
独裁政治の強まりによって御家人達から不満が噴出することを警戒し、訴訟や政治の公正を盤石なものとする為、建長元年(1249年)評定衆の下に引付衆を設置するなどしました。
北条氏は家柄による身分の低さなどから政治をけん引する正当性を確保することに苦労したようで、庶民へ善政を行い強調し、支配の正統性を主張しようと努めていました。
晩年
康元元年(1256年)3月11日、連署の「北条重時」が辞任して出家し、3月30日に重時の異母弟「北条政村」が新たに連署に就任しました。
7月になると時頼は公にはせずに出家の準備を始めました。
8月11日には庶長子の「北条時輔」が元服。9月15日には当時流行していた麻疹にかかります。
25日に時頼は回復するも、同じ病気にかかっていた娘は10月13日に亡くなっています。
11月3日になると時頼は赤痢にかかりますが、11月22日に体調が回復傾向となったため、執権職およびその他の役職と、鎌倉小町にあった邸宅を義兄の「北条長時」に譲っています。
嫡男「北条時宗」は6歳で幼かったことから、代理人として長時に譲ったのだと言われています。
11月23日に時頼は「最明寺(明月院)」で出家し、「覚了房道崇(最明寺入道とも呼ばれる)」と号しました。
出家したものの鎌倉幕府の実権はまだ時頼にあったようです。
時頼の出家は、嫡男「北条時宗」への後継者指名を明確に権力を移行させる目的であったとされ、このような形式は「後白河法皇」などが行った「院政」と同じ仕組みであったようです。
「北条時頼」が出家すると「結城朝広」「結城時光」「結城朝村」「三浦光盛」「三浦盛時」「三浦時連」「二階堂行泰」「二階堂行綱」「二階堂行忠」らが後を追って出家し、幕府へ無許可で行なわれたことから出仕停止の処分を受けています。
11月30日には逆修の法要を行なって死後の冥福を祈り、時頼の出家としての立場を明確にしています。
その後康元2年(1257年)以降も、時頼は依然として政治の中心人物として幕府に関わっており、時頼によって得宗家に権力が集中したことから、「執権」や「連署」といった役職の形骸化が進んだとされています。
「吾妻鏡」によると弘長3年(1263年)11月8日に時頼の病気の悪化を示唆する記事があり、以前から重病であったと推測され時頼の回復のための様々な祈祷が行なわれています。
11月13日になると時頼の病状はさらに進んでおり、様々な祈祷を総動員して病気治癒が祈られました。
しかし11月19日に危篤となり、時頼は翌日「最明寺(明月院)」北亭に移りました。
11月22日午後8時頃、鎌倉幕府第5代執権「北条時頼」は「最明寺(明月院)」で37歳の生涯を閉じました。
菩提寺は北鎌倉・山ノ内の「明月院」にあります。
北条時頼と鎌倉の史跡
「明月院」は、時頼の菩提寺です。特にアジサイの季節には多くの観光客でにぎわう人気スポット!
近くには嫡男「北条時宗」の菩提寺「円覚寺」もあるので一緒に参拝すると歴史も楽しめますよ!
鎌倉「銭洗弁天」は、時頼もお金を洗ったことがある、北条執権家とゆかりのある観光スポットです。
実は鎌倉幕府を創設した征夷大将軍「源頼朝」とも関係のある、歴史の有名人が訪れた隠れスポット!要チェックです!
鎌倉「建長寺」は時頼が開山した鎌倉五山第一位のお寺です。
広大な敷地、三門をくぐってすぐの桜並木や、境内にある数々の建築物や、仏堂は見ごたえがあります!
北鎌倉駅周辺を観光するなら、一度は訪れたい観光スポットです!
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