「北条光時(ほうじょうみつとき)」は、「北条朝時」の嫡男として生まれました。
名越流北条氏の流れを汲み、「名越光時」と呼ばれることもあります。祖父は鎌倉幕府の第2代執権を務めた「北条義時」です。
目次
生涯
光時は、「宮騒動」という当時執権に就任したばかりの第5代執権「北条時頼」を廃しようとした事件を起こしたことで知られます。
第4代執権「北条経時」が若くして亡くなると、その弟「北条時頼」が第5代執権に就任しました。
このとき、鎌倉幕府第4代将軍を務めていた、前将軍「藤原頼経」と謀り、時頼を排除することを計画しました。
史書「保暦間記」によれば、光時は「我は義時の孫なり。時頼は曾孫なり。」と述べたと記されています。
時頼を廃する計画を立てたものの、光時や「藤原頼経」は敗北することとなり、頼経は京都へ送還、光時は出家し弟ら親族と共に特許利に降伏しました。
このとき、所領を全て没収され伊豆国へ流されています。
こうした経緯から、子孫は名越流の嫡流を外れ、江間氏を名乗っています。
得宗家と名越家の対立は、後々まで続き、二月騒動では、光時の弟「北条教時」が再び謀反を起こし討伐されています。
このときの執権は、皮肉にも、光時が廃そうとした、時頼の子「北条時宗」でした。
あわせて読みたい


「名越流北条家」の人物まとめ~得宗家に対抗し衰退する~
鎌倉幕府第2代執権「北条義時」の子である「北条朝時」が開祖となった、名越流北条家の人物をまとめました。 朝時が、「源頼朝」挙兵から付き従った、祖父であり初代執…
あわせて読みたい


鎌倉幕府執権を務めた「北条氏」の人物まとめ
「執権(しっけん)」は、鎌倉幕府の実質上の最高責任者の職名。鎌倉幕府将軍を補佐し、政務を統轄する重要なポジションでした。 一般的なイメージとして、鎌倉幕府初代…
コメント