「安達時顕」~霜月騒動で失墜した安達家を再興した~

「安達時顕(あだちときあき)」は、「霜月騒動」で討たれた「安達宗顕」の子として生まれました。

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生涯

弘安8年(1285年)の「霜月騒動」で父「安達宗顕」や祖父「安達泰盛」など、安達一族のほとんどが滅ぼされる中、幼子であった「安達時顕」は乳母に連れられ難を逃れています。

その後は政村流北条氏の庇護下にあったようであり、当主「北条時村」に烏帽子親を務めてもらい元服、このとき、「時」の字を賜って「時顕」を名乗ったとされます。

永仁元年(1293年)の「平禅門の乱」で内管領「平頼綱」が滅ぼされると、後年、安達一族の復帰が許され、時顕が安達氏家督である秋田城介を継いでいます。

この時、時顕が継承できたのは、継承者の血筋が多数ある中、当時幕政の中心にあった「北条時村」とのつながりがあったためと推測されています。
史料でにおける時顕の初登場は、「一代要記」徳治2年(1307年)1月22日の日付であり、翌徳治3年(1308年)の時点で既に秋田城介であったこと記載されています。

応長元年(1311年)、鎌倉幕府第9代執権「北条貞時」が亡くなると、時顕は「北条貞時」から「長崎円喜」と共に9歳の嫡子「北条高時」の後見を託されています。

正和5年(1316年)には14歳で第14代執権となった「北条高時」に娘を嫁がせて得宗家の外戚となり、また時顕の嫡子「安達高景」は「長崎円喜」の娘を妻に娶り、内管領とも縁戚関係を結んで権力の基盤を強化しています。

文保元年(1317年)に「霜月騒動」で討たれた父「安達宗顕」の33回忌供養を行っています。

元亨4年(1324年)9月、「後醍醐天皇」の倒幕計画が発覚し、関与した公家らが六波羅探題によって処罰され、「後醍醐天皇」から、釈明のため鎌倉に派遣された「万里小路宣房」を「長崎円喜」と共に問いただし、これを恐れた宣房が嘲弄を招いたとされています。

正中3年(1326年)3月、執権「北条高時」の出家に伴い、時顕も出家し法名の「延明」を名乗りました。
高時の後継者を巡り、高時の妾が産んだ「北条邦時」を推す長崎氏と、高時の舅である時顕と安達一族が高時の弟「北条泰家」を推薦したことによって、北条一門がそれに巻き込まれる「嘉暦の騒動」が起き、最終的には邦時が嫡子の扱いとされました。

元弘3年/正慶2年(1333年)の「東勝寺合戦」において鎌倉幕府が滅亡した際、「北条高時」ら北条一門と共に亡くなっています。

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