「北条時村(ほうじょうときむら)」は、鎌倉幕府第9代連署を務めた人物です。
鎌倉幕府第7代執権「北条政村」を父に持ちます。
生涯
父、正村が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も様々な役職を務め、建治3年(1277年)12月に京都へ上洛すると、六波羅探題北方に任じられた。六波羅探題に就任した者のほとんどが20代までに任じられていたことから、36歳での就任は、得宗家や御内人から、出自などによる地位を警戒された説、他にはモンゴル帝国の襲来によって、緊迫していた京都の治安維持や掌握を期待されたとする説などがあるようです。
和泉守、美濃守、長門守、周防守、長門探題職や寄合衆などににんめいされています。
弘安7年(1286年)、8代執権「北条時宗」が死去した際には鎌倉へ向かったが途中、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛したとされています。
弘安10年(1287年)、鎌倉に呼び戻されて引付衆の一番頭人を務めています。
正安3年(1301年)、甥の「北条師時」が鎌倉幕府第10代執権に任命されると、連署に就任し、幕政を補佐しています。
嘉元3年(1305年)4月23日夕方、第9代執権「北条貞時」の命令とする御家人たちが、時村の屋敷を襲撃し、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により焼失してとされます。64歳で亡くなっています。
時村を襲撃した12人はそれぞれ、有力御家人に預けられていたようですが、「此事僻事(虚偽)なりければ」として処刑されています。
5月4日に、一番引付頭人「大仏宗宣」らが貞時の従兄弟「北条宗方」を追討し、二階堂地区にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の一門の多くが戦死しました。
「嘉元の乱」とされるこの事件は「保暦間記」の記述により、「北条宗方」が政権を狙って起こしたものとされていましたが、鎌倉時代末期から南北朝時代になされた解釈で、同時代に書かれた「実躬卿記」の同日の記載に「凡珍事々々」とあり、事件の真相は闇の中となっています。この事件を生き延びた「北条煕時」は幕政に加わり、第12代執権に就任しています。
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