「和田義盛(わだよしもり)」は、「源頼朝」の平家追討の挙兵に付き従い活躍した人物です。
久安3年(1147年)、「三浦義明」の子である「杉本義宗」 を父として生を受けました。
頼朝に付き従った三浦氏の一族で、弓の名手として尊敬されていたとされ、平家追討後は、奥州藤原氏との「奥州合戦」や頼朝死後の「十三人の合議制」の一員となるなど活躍しましたが、最後は鎌倉幕府第2代執権となった「北条義時」との確執により挙兵するも幕府軍と戦い戦死したとされています。(和田合戦)
生涯
和田氏は現在の千葉県または神奈川県にあった和田という地名に由来した性とされています。
治承4年(1180年)に「源頼朝」が流罪となっていた伊豆の地で平家追討の軍を募るとこれに合流しました。
「三浦義明」、「三浦義澄」らと手勢を引き連れて拠点としていた三浦半島から参陣し、義盛と弟の義茂も参加しました。
しかし、三浦一族が大雨により増水した川に阻まれ進軍できずにいるうちに、「石橋山の戦い」で頼朝軍は「大庭景親」に大敗したとされています。
頼朝と合流することが出来なかった三浦軍は、当時は平家側についていた「畠山重忠」の軍と遭遇し合戦となり、史書「源平盛衰記」の記載によれば、功を急ぐ義盛が畠山軍を挑発し合戦となりかけたところ双方の軍に縁者が多いことから講和を結び手を引くこととなったとあります。
しかし、この内容を知らなかった義盛が畠山軍に攻撃を仕掛け(小坪合戦)、結局は双方に死傷者を出してしまったとされています。
その後、「畠山重忠」は三浦にある「衣笠城」を攻め、当時89歳だった祖父「三浦義明」が一人城に残って討ち死にしています。(衣笠城の戦い)
一族に多くの犠牲を出す中、義盛らは頼朝方の「北条時政」らと合流し、安房国(現在の千葉県)で頼朝を迎えました。
「石橋山の戦い」の敗戦から体制を立て直す中、頼朝はさらなる味方を募るため「千葉常胤」には「安達盛長」、「上総広常」に義盛を使者として送りました。
義盛が使者に赴いた「上総広常」はなかなか味方しようとせず、千葉氏を頼朝が出迎えた後に遅れて参陣したと言います。
頼朝の器量を見極めてから要請に応じるつもりだったとされる「上総広常」は場合によっては頼朝を討ち取るつもりだったとされ、率いてきた軍は2万騎に達していたとされます。
やがて先の戦いでは敵となった「畠山重忠」などが味方となり、駿河国(現在の静岡県)の「富士川の戦い」では「平維盛」の軍勢に勝利を収めています。
頼朝は関東の地盤を強力なものとしていく中、常陸国(現在の茨城県)の佐竹氏との戦いで義盛は「佐竹秀義」を捕らえるなど活躍し、義盛はかねてより熱望していた侍所別当に任じられています。
平家追討の戦い
元暦元年(1184年)8月、頼朝の弟の「源範頼」の平家追討軍に義盛は軍奉行として参加しています。
史書「吾妻鏡」の記載によれば大変な苦戦を強いられていたとされ、東国武士たちの戦意の低下を嘆く記述が見られ、義盛も鎌倉へ秘かに帰ろうとしているなどと書かれています。
やがて範頼ら平家追討軍は兵船の調達に成功し、義盛は「北条義時」、「足利義兼」らと九州のへ渡りました。
豊後国(現在の大分県あたり)で発生した「葦屋浦の戦い」で勝利し平家の背後を脅かし、その間にもう一方の追討軍「源義経」は「屋島の戦い」に勝利すると、平家滅亡となる「壇ノ浦の戦い」で義盛も強弓を引き平家と戦い活躍したと、史書「平家物語」に記載されています。
奥州合戦
平家が滅亡すると、頼朝と弟「源義経」との対立が起き始めました。
義経は独断で官位を授かるなどした事を頼朝に謝罪しましたが許されることはなく、京での挙兵にも失敗し、かつて世話になっていた奥州藤原氏を頼り逃れて行きましたが、文治5年(1189年)、義経に協力的だった「藤原秀衡」死後、当主となった「藤原泰衡」が義経を攻め討ち取りました。
藤原氏から送られた義経の首実検を義盛と「梶原景時」が行ったとされています。
義経が討ち取られたことによって、頼朝は藤原氏を滅ぼすため奥州への遠征軍を招集しました(奥州合戦)。
「阿津賀志山の戦い」で泰衡とその弟「藤原国衡」兄弟に勝利すると、義盛は先陣をきってこれを追撃するなど活躍しています。
「奥州合戦」終わると国衡を討ち取った戦功について「畠山重忠」と言い争いをしたとされ、「藤原泰衡」が討ち取られた後の首実検を義盛が行っています。
頼朝の死後
1190年には頼朝上洛の先陣を務め、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選出されるなどし、頼朝が推挙する御家人10人にも選出され左衛門尉に任命されています。
建久10年(1199年)に頼朝が死去すると、嫡男の第2代将軍「源頼家」を補佐する「十三人の合議制」へ宿老として参加しました。
やがて「梶原景時」が「結城朝光」を讒言したとする事件が発生し、御家人らは激怒し景時を弾劾するべく訴状を「大江広元」へ提出しています。
この弾劾状に悩み留めていた「大江広元」を義盛が詰問したことで、広元はこの弾劾状を第2代将軍「源頼家」に披露し「梶原景時」は失脚し鎌倉を退去した後、粛清されています(梶原景時の変)。
さらに建仁3年(1203年)には、頼朝の親戚である北条家と比企氏の対立が激化、「比企能員」は第2代将軍「源頼家」の愛妾で嫡男「一幡」の母「若狭局」の父親であり権力を強め、北条氏にとって邪魔な存在となっていました。
「北条時政」は謀略を用い「比企能員」を謀殺すると、将軍の頼家が病に伏せているうちに比企一族を、現在の鎌倉「妙本寺」において攻め滅ぼし「比企能員の変」、義盛もこの戦いに参加しています。
病から復帰した将軍の頼家は嫡男「一幡」と比企一族の滅亡を知ると激怒し、北条氏を討伐せよと義盛と「仁田忠常」に命じる書状を発行しますが、悩んだ末、義盛はこの書状を「北条時政」に届けたとされ、「仁田忠常」は北条氏に討ち取られています。
北条氏討伐に失敗した頼家は出家に追い込まれ将軍職を失い、弟の「源実朝」が第3代将軍となり、頼家は伊豆修善寺へ幽閉され謀殺された言います。
元久2年(1205年)になると初代執権となった「北条時政」は「畠山重忠」に謀反の疑いをかけ、嫡男「北条義時」を総大将とすると、義盛もこれに参加し「畠山重忠」は幕府軍に敗れ討ち取られています。(畠山重忠の乱)
しかし、権力を振るい過ぎた「北条時政」は第3代将軍の実朝まで廃そうとしましたが、頼朝の妻「北条政子」や嫡男の「北条義時」がこれに異を唱え失脚すると隠居させられ権力を失いました。(牧氏事件)
承元3年(1209年)、義盛は「上総国司」の職を切望したとされ、第3代将軍「源実朝」は母「北条政子」へ相談するも義盛への任命は拒絶されています。
「平賀朝雅」や「八田知家」などの御家人が「上総国司」に任命されている例もあり、義盛が権力を持つことへの牽制であったと推測されています。
義盛は「大江広元」を通じて食い下がりましたが、やはり拒絶されています。
和田家滅亡
建暦3年(1213年)2月、「泉親衡」が頼家の遺児を擁立して北条氏を打倒する計画が発覚し(泉親衡の乱)、これに義盛の子の義直、義重、甥の胤長の関与していることが判明します。
鎌倉を留守にしていた義盛は鎌倉へ戻ると、第3代将軍「源実朝」に子息や甥の赦免を願い許可されますが、甥の胤長のみは張本人であるとのことから許されなかったと言います。
助命嘆願に訪れた和田一族の目の前で胤長は縛り引き立てられ、和田一族に大きな恥辱を受けたとされています。
胤長は陸奥国へ流罪となり鎌倉の邸宅は没収、義盛は邸宅を自分に下げ渡すようにと願い受け入れられますが、話は反故とされ「北条義時」は別の御家人に胤長の邸宅をを下げ渡してしまいました。
度重なる義時の挑発により、義盛は反北条氏の勢力を集めると挙兵を決めました。
しかし、一番頼りにしていた親族で三浦氏当主「三浦義村」が直前で裏切り「北条義時」へ計画を伝えてしまいました。
挙兵した義盛は鎌倉市街で一族らと奮戦し、三男の「朝比奈義秀」の活躍は目覚ましかったとされます。
北条側に新手が次々と現れ、義盛側も援軍が到着するなど一進一退の攻防が繰り広げられましたが、義時と「大江広元」らは将軍「源実朝」の名で書状を発行すると、多くの御家人がこれに応じ北条側は大軍となり和田一族は次第に討ち取られていきました。
やがて息子の「和田義直」も討ち取られると、義盛も「江戸義範」らに討ち取られたとされ、この時67歳でした。
鎌倉の江ノ電「和田塚駅」にその名の通り和田塚の石碑が残り地名となっています。
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