「八田知家(はったともいえ)」は生没年1142年~1218年で、「宇都宮宗綱(八田宗綱)」の四男として生まれ、早くから「源頼朝」に付き従い活躍、後に十三人の合議制の一人に選出されました。
戦国時代には後北条氏の「北条氏康」や越後の「上杉謙信」などの間をしぶとく生きた小田氏の開祖であり、小田城の築城者として知られます。
目次
生涯
保元元年(1156年)の保元の乱では「源義朝」に味方して戦い活躍し、伊豆に流されていた「源頼朝」が 治承4年(1180年) 打倒平氏の挙兵を行うと一早く参陣しています。
元暦元年(1184年) には、「源範頼」が率いる平氏追討の軍に参加し、後に頼朝の弟「源義経」が無断で任官した際には知家も任官をしていたことから頼朝に叱責されてしまいました。
文治5年(1189年)には奥州藤原氏の討伐「奥州合戦」において「千葉常胤」と東海道大将軍に指名されています。
建久4年(1193年)に従兄弟である「多気義幹」を「北条時政」と共謀し領地を没収、下野から常陸に拠点を移し守護の座を得ています。
やがて鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」が急死すると、鎌倉幕府第2代将軍となった「源頼家」の元で「十三人の合議制の一人」に選出されています。
建仁3年(1203年)には頼朝の弟「阿野全成」が「北条時政」、「北条義時」ら北条家と組み頼家に対抗したため、先手を打った頼家の命令で全成を誅殺しています
建保6年(1218年)に76歳で亡くなっています。
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