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「足利貞氏」~足利宗家第7代当主・室町幕府の祖「尊氏」の父~

「足利貞氏(あしかがさだうじ)」は、足利宗家第7代当主を務めた人物です。

「足利家時」の嫡男として生まれ、子に鎌倉幕府を倒し室町幕府初代将軍となった「足利尊氏」や「足利高義」、「足利直義」がいます。

目次

生涯

「足利家時」が若くして自害によって亡くなると、幼くして足利氏当主となりました。

幼くして足利家当主となった貞氏は、およそ10歳くらいだったとされ。執事「高師氏」、「高師重」親子の補佐を受けました。

連署執権を務めた「金沢顕時(北条顕時)」の娘を正室とし、家時の自害した理由は諸説あるものの、先代までの足利氏当主たちと同じく幕政を司る北条氏との関係を維持していました。

「貞」の字は、元服した当時、第9代執権であった「北条貞時」の偏諱を賜り付けたもので、今までの足利当主と同じく、執権の名を貰い、貞氏と名乗りました。

貞氏が生まれた時期、モンゴル帝国の襲来を防ぐため第8代執権「北条時宗」は、当時の将軍「惟康王」を「源惟康」として源氏将軍「源頼朝」が「治承・寿永の乱」を勝ち抜いて鎌倉幕府を開いた事にならい、戦勝を祈願すべく「源氏将軍」復活させることにより、モンゴル帝国の襲来へ結束を固めようとしました。

しかし、これが足利家にとって災いとなりかねない流れを生んでいました。

足利家は将軍「惟康王」よりも、頼朝と同じ流れを汲む「清和源氏」の系譜に連なる家系でした。
このため、足利家の方が将軍に相応しいとの認識が周囲に生まれていたと言います。

これは、幕政を司る北条氏に、足利家が将軍になろうとしていると疑念を抱かせるには十分な出来事だったと推測されます。

当時、足利家第6代当主であった父「足利家時」は、将軍「惟康王」の近臣として執権「北条時宗」とのつながりをつくり幕政へ貢献していたものの、時宗が亡くなると、これが裏目に出たのか「源氏将軍」として足利家が担がれるのを防ぐためか自害して亡くなっています。

足利家とゆかりの深い鎌倉「浄明寺・十二ヶ所エリア」の「報国寺」に父、家時の墓所が残されています。

父の家時が自害した理由は諸説あり定かではありませんが、当時あったであろう足利家反逆の流れを断ち切るためであったとする説が有力とされています。

1285年の「霜月騒動」や、1293年に内管領「平頼綱」が誅殺された「平禅門の乱」の際にも、「源氏将軍」を待望する動きがったとされています。

これに対し、鎌倉幕府第9代執権「北条貞時」は、貞氏に対し「源氏嫡流」を公認としました。
これは足利家の取って、他にある源氏一門とは違うという事が公に示されたことになり、歓迎すべきことだったようです。

その見返りとして、北条執権家への服従と幕政への協力を求めていたようで、貞時の子、第14代執権「北条高時」の時代にも、北条家と足利家の協力体制は維持されていきました。

父の家時が自害などあったものの、貞氏の時代にも今までのように積極的に北条氏へ協力することで、「源氏嫡流」を認めさせた上、幕府内でも優遇されるポジションを築き、足利家の立場を安定させて行きました。

出家と晩年

鎌倉幕府第9第執権「北条貞時」が辞職し出家すると、これに同じくして貞氏も出家したとの説が有力視されています。
以前は貞時が亡くなったことで出家したとする説が有力でしたが、近年の研究で変わっています。

古文書などには、正和3年(1314年)3月28日付「粟生敬願譲状写」や文保2年(1318年)9月17日付「長幸連譲状写」といったものがあり、出家はしたが家督を譲り隠居していたわけではないようです。

息子の「足利高義」への家督相続は、正和3年から4年の間であったと推測されていますが、高義は、文保元年(1317年)に若くして亡くなったとされています。

次男の「足利尊氏」もまだ幼かったことから、貞氏がその後も足利家の当主を務めていました。
貞氏の存命中には家督を尊氏には譲っていないとされています。

貞氏は、鎌倉の足利菩提寺「浄妙寺」を再興し、弘安4年(1281年)に落雷の火災により焼失していた「足利鑁阿寺」大御堂の再建も行いました。

元弘元年/元徳3年(1331年)9月5日、59歳で亡くなっています。

次の年、元徳4年(1332年)には次男の「足利尊氏」名義の書状が出されているため、尊氏が家督を継いでいることが分かります。

貞氏が亡くなった2年後、家督を継いだ「足利尊氏」は鎌倉幕府に反旗を翻し、のちに室町幕府を開く戦いへと身を投じて行きました。

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