「北条貞顕(ほうじょうさだあき)」は、鎌倉幕府第15代執権、第12代連署を務めた人物です。(在職期間:1326年4月19~1326年4月29日)
金沢流北条氏の父「北条顕時」、母「遠藤為俊」の娘である「入殿」の子として生まれました。
生涯
貞顕という名前は第9代執権「北条貞時」の「貞」と父である「北条顕時」の「顕」を組み合わせたものとされています。
貞顕は17歳で出仕しはじめましたが、弘安8年(1285年)11月の「霜月騒動」において父の顕時が、安達家の娘と結婚し関係していたことから連帯責任を負い失脚していたため、遅めの出仕になったといわれています。
正安3年(1301年)3月に父「北条顕時」が亡くなると、第9代執権「北条貞時」より家督の相続を命じられています。
兄たちがいましたが、能力高さや、第9代執権「北条貞時」から父「北条顕時」への信頼が厚かったためではないかとされています。
正安4年(1302年)7月になると、六波羅探題南方に任命され、京における政務を取り仕切っています。
京での在任中には多くの公家や僧侶と親交を深めており、京の文化に触れ教養を深めています。
延慶元年(1308年)12月、後任の「大仏貞房」に六波羅探題南方を任せると、延慶2年(1309年)1月に鎌倉へ戻っています。
執権として
延慶2年(1309年)1月21日、「北条高時」の元服式で御剣役を務めています。
この役目は代々、幕府の重要人物が務めてきたことから、貞顕の地位が特別視され高かったのではないかと言われています。
8月に「北条煕時」が引付1番から引退し、貞顕は2番手となっています。6月25日には六波羅探題北方として再度京へ向かいました。
文献の写本に精を出していたようで、「金沢文庫」の充実をはかっていました。
以前上洛していた南方時代の時の方が精力的に文化活動をしていたようです。
正和4年(1315年)7月11日、「北条基時」が執権につくと連署に就任しています。
正和5年(1316年)7月に「北条高時」が執権に就いた時も、補佐に努めています。。
正中3年(1326年)3月、「北条高時」病により出家すると、貞顕も出家し引退しようとするが引き止められています。
3月16日、貞顕は内管領である「長崎高資」によって「北条邦時」の執権就任までの中継ぎとして第15代執権に就任しました。
貞顕の執権就任は幕府内に波紋を呼び、反対した多くの人間が出家し、貞顕暗殺の動きまで発生したため、執権就任の10日後3月26日に辞職して出家しています。
貞顕の後任として「北条守時」が第16代執権に就任しています。この10日執権騒動は「嘉暦の騒動」と呼ばれています。
晩年
元弘3年、正慶2年(1333年)5月、「新田義貞」が倒幕の兵を率いて鎌倉へ侵攻して来ました。
貞顕ら金沢流北条氏の多くは巨福呂坂の守りに付き、「新田義貞」と戦いました。5月22日、貞顕は「北条高時」と「東勝寺」に籠ると56歳で自害しました。
子の「北条貞将」もこの戦いで戦死しています。
「金沢文庫」の古文書の中に642通の書状が現存しているそうで、現代に残る貴重な資料となっています。
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