「足利家時(あしかがいえとき)」は、足利宗家第6代当主を務めた人物です。
鎌倉の史跡、竹林で有名な「報国寺」とゆかりの深い人物として知られています。
室町幕府初代将軍「足利尊氏」は孫にあたり、尊氏のおじいちゃんです。
生涯
父「足利頼氏」、母「上杉重房」の娘との間に生まれました。母は側室で、足利家の慣習であった、北条氏からの正室以外の子が家督を継ぐという例外的な相続でした。
また家時の「時」の字は、執権だった「北条時宗」からの偏諱を賜ったものであるとする説もありますが、本来は頂いた名は先頭にもってくるので、本来「家時」でなく「時家」などとなるはずで、別の人物から偏諱を賜った可能性もあるようです。
家時が幼いころに代行で当主を務めていた叔父の「斯波家氏」からではないかとの見方もあるようです。
当主~晩年まで
家時の第6代当主としての活動は文永3年(1266年)4月24日に始まっています。
被官「倉持忠行」に袖判下文を与えたとされます。
文永6年(1269年)足利家の菩提寺「鑁阿寺」に寺規を定めるなど、寺の興隆に力を入れています。
寺規を定める事は、家督相続した直後に取り決められることが多いようです。
このことから、1266~1269年の間に伯父の「斯波家氏」が亡くなり、その後任として、家時が名実ともに第6代当主となったとされます。
文永10年(1273年)、家時が14歳の時、「常盤時茂」の娘との間に嫡男「足利貞氏」が生まれています。
この年、高野山金剛三昧院の僧侶であった「法禅」と所領を巡って訴訟となり、裁判を争いました。
しかし、弘安2年(1279年)に敗訴しています。
この訴訟の敗訴からか、鎌倉幕府に対して批判的になっていったとされています。
しかし、この裁判の過程で作成された建治2年(1276年)に幕府が作成した書類の記載に「足利式部大夫家時」とあります。
これは当時17歳であった家時が既に「式部大夫(従五位下式部丞)」であった事が注目されます。年齢にしてかなりの高位だったようです。
同時期の人物の中では、北条分家の有力者「赤橋義宗」と同年齢で叙爵を受けていたことになります(北条時宗・宗政兄弟のみはこれより早い年齢で受けています)。
弘安5年(1282年)11月25日にはなんと、23歳で「伊予守補任」となっており、武家の国守補任においては15歳で「相模守」となった時宗以外ではかなりの特例だったとされます。
武家からの「伊予守補任」は「源義経」以来なかったうえ、家時の後も鎌倉時代に「伊予守補任」となったのは北条一門の「甘縄顕実」のみでした。
これはかなりの厚遇であったようで、当時、モンゴル帝国による「元寇」などがあったことを考えても、相当な待遇だったようです。
建治元年(1275年)に行われた、六条八幡新宮造営の負担金は北条氏に次ぐ金額(二百貫)を割り当てられていることから、幕府内でも相当なポジションであったと推測されます。
弘安7年(1284年)6月25日に自害して亡くなったとされています。原因は↓↓↓をどうぞ!
家時が亡くなった後は、子の「足利貞氏」が家督を継いでいます。
家時の自害について
この頃、第8代執権「北条時宗」の内管領「平頼綱」と御家人の実力者として幕府内の重臣となっていた「安達泰盛」の争いが激化しいました。
時宗がなくなると争いはさらにヒートアップしていきます。
弘安8年(1285年)11月、「霜月騒動」が発生すると「安達泰盛」は誅殺されてしまいます。
ここから「平頼綱」の独裁政治が始まりました。
足利氏は「安達泰盛」に接近し、「霜月騒動」では足利一族の吉良氏から「吉良満氏」が泰盛に与しています。
家時もこれに関与していたため自害したのではとする説もありますが、前年の弘安7年(1284年)7月26日、「橘知顕」が伊予守に補任されています。(勘仲記より)
それまでに前任者の家時が亡くなったため、空位となっていたものが補われたものとされ、足利家準菩提寺の滝山寺(三河国額田郡)に残る「滝山寺縁起」の記録よれば、その1ヶ月前となる6月25日に亡くなったと考えられています。
家時の死の背景について、泰盛の後ろ盾となっていた、「北条時国」(義理の外叔父でした)が悪行を理由に配流され誅殺されたことに関連して自害したのではないかとする説もあります。
他には、家時は将軍「惟康親王」に近侍して、第8代執権「北条時宗」と結びつけた近臣であり、モンゴル帝国の襲来によって「源氏将軍」を期待する世論が生まれていたことから、「北条時宗」に殉死することで得宗家への忠義を示し、鎌倉幕府滅亡に至るまで足利氏が(粛清されることなく)安泰となったとする説もあります。
墓所「報国寺」・家時の置文
墓所は鎌倉「浄明寺・十二ヶ所エリア」にある、功臣山「報国寺」で、家時は開基とされていますが、「報国寺」の開基は南北朝期の「上杉重兼(宅間上杉家祖)」が開基というのが本当のところの様ようです。
足利家と関係の深い上杉氏が供養したのではないかとされています。
置文伝説
「今川貞世」によって書かれた「難太平記」(応永9年・1402年)の記載によれば、足利家に伝わる、先祖であった八幡太郎「源義家」が書き残したとされる、「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という内容の置文が存在したとあり、義家から七代目にあたる家時は、自分の代での達成は叶わないので、八幡大菩薩に三代後の子孫(2代後の足利尊氏が天下をを取っています)に天下を取らせるよう祈願し、この置文を書き残すと自害したという。
「足利尊氏」、「足利直義」の兄弟はこれを目撃したことがあると言い、「今川貞世」自身もその置文を見たことがあると記しています。(ホントか!?いつの時代も大げさに脚色する人間はいたんじゃないかしら???)
尊氏と直義の兄弟は、「元弘の乱」で鎌倉幕府を滅ぼす活躍をみせ、「後醍醐天皇」の建武政権樹立に大きな貢献を果たしています。
鎌倉幕府滅亡後も「北条高時」の子「北条時行」が「中先代の乱」を起こし、鎌倉を占拠しました。その後、後醍醐天皇と決裂し、「建武の乱」に打ち勝った尊氏は、室町幕府を開いています。
そして、足利方の有力武将だった「今川貞世」の証言だったことから、かつては家時の願文が幕府樹立の動機とも考えられていました。しかし、近年の研究ではこの説はほとんど支持されていないようです。
家時が足利家の執事「高師氏」に宛てた書状を、尊氏の執事となった、子孫の「高師直」の従兄弟「高師秋」が所持しており、「足利直義」がこれを見て感激したと言います。
師秋には直義が直筆の案文を送って正文は自分の下に留め置いた、という直義の書状が残っているため、「家時の置文」は実在しました。
しかし、直義がこの置文を見たのは「建武の乱」から15年後であるので、これが挙兵の動機ではないとされています。
「家時の置文」の内容は、「今川貞世」が記載していた「天下を取れ」というものとは違うものではなかったかと推測されています。
足利氏が「源氏嫡流」という認識は、室町幕府成立後、室町幕府が正当性を高めるために行った工作によって広まったものであるとされています。(いつの時代もこんなのばっかりや・・・歴史から勉強できることって多いですよね!)
貞世が述べた「源義家」の逸話や、家時の天下取りの話も、足利家が「源氏嫡流」であるとする認識を強化するための工作であるとするのが有力な説になっています。
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