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「北条時政」~鎌倉幕府初代執権~

「北条時政(ほうじょうときまさ)」は、鎌倉幕府初代執権を務めた人物です。

伊豆国の豪族「北条時家」か「北条時方(もしくは時兼)」の子として生まれたとされます。

鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」の正妻となった「北条政子」、第2代執権「北条義時」、初代連署「北条時房」の父です。

目次

生涯

北条氏は桓武平氏高望流の「平直方」の子孫であると言います。伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)の豪族でした。

時政より以前の系譜は系図により全て異なり、桓武平氏の流れを疑わしいとする研究者も多いようです。

「平治の乱」敗れ亡くなった「源義朝」の嫡男「源頼朝」が伊豆国へ流され、頼朝の監視役となりました。

妻「牧の方」の実家は「平頼盛」の家人として駿河国大岡牧を知行していました。

流されてきた頼朝は娘の「北条政子」と恋仲になって行きました。
初めのうちは、この交際に反対していた時政ですが、やがて二人の婚姻を認め頼朝の強力な後ろ盾となって行きました。

治承4年(1180年)4月27日、平氏打倒の令旨が「以仁王」より伊豆の頼朝に届きました。頼朝はしばらく事態を静観し動きませんでした。

しかし「源頼政」の敗死に伴い、伊豆の知行国主が「平時忠」に交代すると、伊豆国衙の実権は伊東氏の手に移り、北条氏ら他の豪族をを圧迫した。

さらに流刑者として伊豆に滞在していた「平時忠」の元側近「山木兼隆」が伊豆国目代となり、また「源頼政」の孫、「源有綱」は伊豆にいましたが、追手として「大庭景親」が下向して来ました。

自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵します。「安達盛長」を使者として父「源義朝」の時代から関わりのある坂東武士に協力を呼びかけた。

時政は頼朝と挙兵の計画を立て、「山木兼隆」を攻撃することに決めました。

挙兵を前に、頼朝は「工藤茂光」「土肥実平」「岡崎義実」「天野遠景」「佐々木盛綱」「加藤景廉」らを一人ずつ私室に呼び、各人と密談しました。

8月17日、「源頼朝」軍は伊豆国目代「山木兼隆」を攻撃し討ちとりました。

この襲撃の後、頼朝は伊豆国を掌握しました。その後、頼朝は三浦氏との合流し、8月20日、伊豆を出て「土肥実平」の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出しました。

「北条時政」「北条義時」父子もほかの伊豆国武士らと共に頼朝に従軍しました。

しかしその前に平氏方の「大庭景親」ら3000余騎が立ち塞がり戦闘となりました。23日、景親は夜戦を仕掛け、頼朝軍は大敗して四散した(石橋山の戦い)。

この時、時政の嫡男「北条宗時」が敵方の「伊東祐親」と戦い討ち死にしています。

頼朝、実平らは箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航しし安房国に逃走しました。

時政の途中経過は記載のある文献によって違っていますが、「源頼朝」とは別に行動し、甲斐国で挙兵した「武田信義」ら甲斐源氏と合流することになりました。

10月13日、甲斐源氏は時政と共に駿河に攻め込みました。(鉢田の戦い)

房総、武蔵を制圧して勢力を盛り返した源頼朝軍も黄瀬川に到達した。頼朝と甲斐源氏の大軍を見た平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなりました(富士川の戦い)。

治承4年(1180年)末以降、時政は鎌倉政権下において他の有力御家人の権力が高まったこともあり目立たなくなりました。

寿永元年(1182年)、頼朝は愛妾「亀の前」を「伏見広綱」の宅に置いて寵愛し、頼家出産後にこの事を継母の「牧の方」から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の父「牧宗親」に命じて広綱宅を破壊しました。

12日、怒り心頭の「源頼朝」は宗親を叱責しました。宗親の髻を切って辱めるなどし、これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いています。

文治元年(1185年)3月の平氏滅亡で5年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結したが、10月になると「源義経」と「源行家」の頼朝に対する謀叛が発覚しました。

10月18日、「後白河院」は義経の要請により頼朝追討宣旨を下すが、義経翌月に没落すると11月24日、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げ交渉を開始しました。

28日に時政は「吉田経房」を通して義経らの捕縛の為として「守護、地頭の設置」を認めさせました(文治の勅許)。

時政は京都の治安維持や平氏残党狩り、義経問題の処理をはじめ、朝廷との政治折衝など多岐にわたりました。

その職務は京都守護と呼ばれました。時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、

その施策は「吾妻鏡」において「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(文治2年2月25日条)、

「公平を思い私を忘るるが故なり」(「吾妻鏡」文治2年3月24日)と概ね好評だった。

しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任し、惣追捕使の地位のみを保持するつもりであると「後白河院」に院奏し、その月の終わりに一族の「北条時定」ほか35名を京都に残して離京しました。

後任の京都守護には「一条能保」が就任した。時政の在任期間は4ヶ月間と短かった、しかし義経失脚跡の混乱を収拾して幕府の畿内における軍事体制を再構築しました。

その後、鎌倉に帰還した時政は表立った活動を見せなくなりました。

文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立し、寺に残る「運慶」作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる。

建久4年(1193年)3月「後白河院」の崩御から1年が過ぎると、「源頼朝」は下野国、那須野、次いで信濃国、三原野で御家人を召集して大規模な巻狩りを催した。

5月から巻狩りの場は富士方面に移り、駿河守護であった時政が狩場や宿所の設営を担いました。

しかし、5月28日の夜、雷雨の中、「曾我祐成」と「曾我時致」の兄弟が父の仇である「工藤祐経」を襲撃して討ち取るとる事件が発生します。

この争いで武士が殺傷され、兄の祐成は「仁田忠常」に討たれています。
時致の烏帽子親が時政であることから、「北条時政」が事件の黒幕であるという説もあるが真相は不明となっています。

政権争い

頼朝の死後は嫡男「源頼家」が跡を継ぎ、頼朝存命中は抑えられていた有力御家人の不満が噴出、御家人統制に辣腕を振るっていた侍所別当「梶原景時」が弾劾を受け、12月に鎌倉から追放されています(梶原景時の変)。

正治2年正月2日条によると、「梶原景時」は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされています。

「梶原景時」糾弾のきっかけとなったのは時政の娘「阿波局」とされ、景時一族が討滅された駿河国は時政の勢力圏であることから景時失脚に関与していた可能性が高いとみられています。

将軍家外戚の地位は北条氏から頼家の乳母父で舅である「比企能員」に移り、時政と比企氏は対立が激しくりました。

建仁3年(1203年)7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は「比企能員」を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子「一幡」の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼし、次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放し謀殺しています。(比企能員の変

時政はまだ12歳の「源実朝」を3代将軍に擁立しました。

9月16日には幼い実朝に代わって時政が単独で署名する「関東下知状」という文書が発給され、御家人たちの所領安堵以下の政務を行いました。

10月9日には「大江広元」と並んで政所別当に就任した。この時期の時政は3代将軍の「源実朝」はもちろん、同じ政所別当である「大江広元」の権限を抑えて幕府における専制を確立しました。

十三人合議制が発足すると次第に武力も持つようになっていきました。北条家の領土は広がり、旗揚げ時にも僅かな兵しか動かせなかった北条家は、三浦氏や畠山氏といった豪族に対抗できる軍事力を持つようになっていきました。

時政が政所別当に就任すると、「牧の方」との間に生まれた「平賀朝雅」が京都守護の職務のため鎌倉を離れました。

このころ侍所別当「和田義盛」により武蔵国御家人に対し、「北条時政」に忠誠を尽くす旨が命じられています。11月には「比企能員」の変で逃げ延びた「一幡」が捕らえられ、時政の子「北条義時」の手勢に殺されています。

元久元年(1204年)3月6日には子の「北条義時」が相模守に任命され、北条氏は父子で幕府の要である武蔵国、相模国を抑えました。

同年7月18日、前将軍「源頼家」が伊豆国修禅寺でなくなっています。「源頼家」は「北条義時」の送った手勢により入浴中襲撃されて殺されたと言われています。

11月5日、実朝が坊門信子を正室に迎えるための使者として上洛した嫡男政範が、京で病にかかると6歳でなくなっています。

時政「牧の方」の子であり牧の方、唯一の男子であった「北条政範」の死が、「畠山重忠」の乱から「牧氏事件」へと続く要因となっていきます。

時政による武蔵国の支配は、国内武士団を統率する立場にあった「畠山重忠」との間に摩擦を生じさせていました。

元久2年(1205年)6月、時政は娘婿である「平賀朝雅」や「稲毛重成」の讒言から、重忠を謀反の罪で滅ぼした(畠山重忠の乱)。

このころ時政は牧の方と図り将軍の「源実朝」を暗殺し、「平賀朝雅」を新将軍として擁立しようとしました。

7月19日に「北条政子」と「北条義時」は「結城朝光」や「三浦義村」「長沼宗政」らを遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れています。

時政側についていた大半も義時に味方しはじめると、陰謀は企画倒れとなりました。

時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的だったとも言い、積極的だったのは「牧の方」であったとする説もあります。

幕府内で孤立した時政は同日に出家し、鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居の身となりました。(牧氏事件)。

建保3年(1215年)1月6日、腫瘍のため78歳でなくなりました。

北条家を鎌倉幕府における重要な地位に押し上げた時政でしたが、「畠山重忠」謀殺や「源実朝殺未遂で晩節を汚したためか、子孫からは初代を「北条義時」として祭祀から外されるなど、あまり評判は良くない人物とされています。

時政の孫で第3代執権の「北条泰時」は清廉で合ったとされ、頼朝、政子、義時らを幕府の祖廟を歳末の年中行事も欠かさなかったが、時政のみは牧氏事件で実朝を殺害しようとした謀反人であるとして仏事を行ないませんでした。

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