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鎌倉に関する人物
「梶原景時」~頼朝に重用されるも、その死後滅ばされる~
「梶原景時(かじわらかげとき)」は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」に仕え、鎌倉幕府に貢献した人物です。 一方、御家人たちからは反感を買っていたとされ、「源義経」との対立などは有名で、頼朝の死後には御家人たちから弾劾を受け追放された後、一族もろ... -
鎌倉に関する人物
「二階堂行村」~検非違使を代々務めた家系の祖となった~
「二階堂行村(にかいどうゆきむら)」は、久寿2年(1155年)、「二階堂行政」の子として生まれ、兄弟に政所執事を務めた「二階堂行光」がいます。 【生涯】 行村は文官の家柄の出であるにもかかわらず「検非違使」となったことから山城判官と呼ばれました... -
鎌倉に関する人物
「二階堂行光」~源氏将軍が途絶える混乱期の政務を取り仕切った~
「二階堂行光(にかいどうゆきみつ)」は、長寛2年(1164年)、父「二階堂行政」の子として生まれ、鎌倉幕府の幕政において政所執事として活躍、兄に「二階堂行村」がいます。 【生涯】 建保6年(1218年)に第三代鎌倉幕府将軍「源実朝」が右大臣に就任し... -
鎌倉に関する人物
「二階堂行政」~政所執事を代々務めた家系の祖となる~
「二階堂行政(にかいどうゆきまさ)」は、鎌倉幕府の文官として活躍した人物で、鎌倉幕府初代将軍の「源頼朝」が亡くなった後に設けられた「十三人の合議制」にも参加しました。 幕政において二階堂家は歴代の政所執事を務めましたが、その始まりとなった... -
鎌倉に関する人物
「中原親能」~鎌倉幕府と朝廷を結ぶパイプ役~
「中原親能(なかはらちかよし)」は、中原氏庶流である広季の子とされており、鎌倉幕府の政権の中心人物の一人「大江広元」は弟とされています。 康治2年(1143年)に誕生し、承元2年12月18日(1209年1月25日)に、京都において66歳で亡くなっています。... -
鎌倉~歴史上の出来事~
「比企能員の変」~比企一族の台頭を恐れた時政の陰謀か~
「比企能員の変(ひきよしかずのへん)」は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月2日、鎌倉幕府所代執権「北条時政」と、鎌倉幕府第2代将軍「源頼家」の外戚として権力を集め台頭し始めていた「比企能員」の対立から起きた争いのことで、「北条時政」によ... -
鎌倉に関する人物
「比企能員」~頼朝に重用されるも、北条時政に謀殺される~
「比企能員(ひきよしかず)」は、「源頼朝」の乳母を務めた「比企尼」の甥で、やがて養子となった人物です。 祖先は「藤原秀郷(ふじわらひでさと)」の流れを汲むとされています。 「比企尼」が頼朝と関係が深かったことから、鎌倉幕府第2代将軍「源頼家... -
大町・材木座周辺
「佐竹やぐら」~妙本寺にて自害した佐竹常元ら主従13人~
鎌倉「妙本寺」境内にある「佐竹やぐら」は、「佐竹常元」ら家来13人の墓と言われています。 鎌倉の「大宝寺」開基である、「佐竹義盛」には子供がいなかったため、関東管領を務めていた「上杉憲定」の次男である「 龍保丸(佐竹義仁)」を養子にもらい受... -
大町・材木座周辺
鎌倉「妙本寺」~比企一族滅亡の地~
「妙本寺(みょうほんじ)」は、日蓮宗開祖の「日蓮」に学んだ弟子の「日郎」によって開山され、創建は文応元年(1260)です。 初代鎌倉幕府将軍「源頼朝」や、第2代将軍「源頼家」に仕えた「比企能員」の屋敷があった場所として知られ、建仁3年(1203年)... -
鎌倉に関する人物
「三善康信」~下級公家だったが頼朝にスカウトされる~
「三善康信(みよしのやすのぶ)」保延6年(1140年)承久3年8月9日~(1221年8月27日)は、下級公家だったところを「源頼朝」の側近として招かれ、鎌倉幕府の政務を補佐した人物です。 「三善康光」また「三善康久」の子とされています。鎌倉幕府の初代問...