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「二階堂行政」~政所執事を代々務めた家系の祖となる~

「二階堂行政(にかいどうゆきまさ)」は、鎌倉幕府の文官として活躍した人物で、鎌倉幕府初代将軍の「源頼朝」が亡くなった後に設けられた「十三人の合議制」にも参加しました。

幕政において二階堂家は歴代の政所執事を務めましたが、その始まりとなったのが行政で、現在の鎌倉二階堂の地域に建立された「永福寺(ようふくじ)」の近くに行政が住んでいたことからとされています。

目次

生涯

「源頼朝」に仕えた経緯は、母の血筋が熱田大宮司家であったことからその縁により、鎌倉へ向かい仕えたとされ、新造公文所の吉書始によれば、「大江広元」の基に寄人として参加したとされます。

「源頼朝」が、奥州藤原氏を討伐した文治5年(1189年)7月の奥州合戦では、「藤原泰衡」の配下であった「由利八郎」を捕らえたことについての訴訟を扱い、さらには朝廷へ奥州合戦の経緯を報告するための書状を行政が編纂したとされています。

建久元年(1190年)9月15日には頼朝の京都上洛への費用や、その他の多くの雑事を取り扱った奉行人の筆頭格として名を連ねています。

史書「吾妻鏡」の記載にある文官の仕事に行政の名が多く見受けられ、別当「大江広元」の次に政所令として「主計允藤原朝臣行政」と名が書かれているものなどがあります。

幕政において、「大江広元」を補佐する役割を果たし、広元が京都へ上洛している間は、行政が代理として政所の政務を担当しています。

頼家時代の活動とその後

正治元年(1199年)4月12日には、「源頼朝」が亡くなった跡を継いだ「源頼家」が単独で訴訟などを取り扱う事を辞めさせ、「十三人の合議制」によって訴訟などが執行されることになりました。

これに行政も参加しており、「大江広元」「三善康信」「中原親能」らとともに鎌倉幕府を支えた実務官僚であったとされます。

しかし、第3代将軍「源実朝」の時代になると政所発給の書状からその名が見られなくなっており、亡くなった年などは詳しく分かっていません。

子孫による政所執事の継承

行政の子らは代々に渡って「二階堂氏」を名乗り政所執事を世襲していったとされ、行政のもう一人の子「二階堂行村」は、建暦3年(1213年)の 「和田義盛」 ら和田一族が滅ぼされた「和田合戦」において、軍奉行として合戦記や論功行賞を取り扱っており、こちらの家系は代々検非違使を世襲して行きました。

「二階堂行政」ら二階堂家の記録は史書「吾妻鏡」の編纂においてかなりの引用をされているとされ、「吾妻鏡」の記載の中には、行政の子「二階堂行光」を顕彰する記事などもあり、鎌倉幕府における文官として盤石な地位を得ていたと思われます。

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