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「二階堂行村」~検非違使を代々務めた家系の祖となった~

「二階堂行村(にかいどうゆきむら)」は、久寿2年(1155年)、「二階堂行政」の子として生まれ、兄弟に政所執事を務めた「二階堂行光」がいます。

目次

生涯

行村は文官の家柄の出であるにもかかわらず「検非違使」となったことから山城判官と呼ばれました。

兄弟の「二階堂行光」が政所執事として活躍する一方で、侍所の検断奉行(検事兼裁判官)を務め活躍しました。

1213年(建暦3年)に発生した 「和田義盛」 ら和田一族が滅んだ「和田合戦」においては、鎌倉幕府側の軍奉行を務めていたとみられ、その経緯が史書「吾妻鏡」に記載されています。

この時の働きによって相模国大井壮を与えられています。

建保6年(1218年)には、第3代将軍「源実朝」が左近衛大将任命を受けた際に鎌倉へやって来た「長井時広」の、京都帰還願いを実朝へ取り次ぐなどしています。

翌年の1219年に、行村が奉行を執り行った「鶴岡八幡宮」の拝賀において第2代将軍「源頼家」の子「公暁」に、「源実朝」が暗殺されると、責任を出家し「行西」と名乗りました。

嘉禄元年(1225年)からは評定衆となり、その後、伊勢国益田庄地頭を拝命し、嘉禎4年(1238年)に現地で亡くなっています。

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