鎌倉「妙本寺」境内にある「佐竹やぐら」は、「佐竹常元」ら家来13人の墓と言われています。
鎌倉の「大宝寺」開基である、「佐竹義盛」には子供がいなかったため、関東管領を務めていた「上杉憲定」の次男である「 龍保丸(佐竹義仁)」を養子にもらい受けました。
「佐竹義盛」が亡くなると、その後を養子として佐竹家に入った「龍保丸」がその後を継ぎました。
しかし、この家督相続に納得のいかない「佐竹常元」は、ことあるごとに反抗的な態度を取り続けたとされます。
1422年に、「佐竹義仁(龍保丸)」に反抗し続ける常元を快く思っていなかった第4代鎌倉公方の「足利持氏」は、鎌倉の佐竹屋敷にいた常元を、「上杉憲直」に襲わせました。
この時、「佐竹常元」は防戦するも劣勢となり、佐竹屋敷(現在の大宝寺付近)の背後にある大宝山(佐竹山」を越え、「妙本寺」に戦場を移します。
しかし、最後は力及ばず、「佐竹常元」主従13人は「妙本寺」境内の法華堂において自害したとされます。
常元以下13人の墓が、「佐竹やぐら」と呼ばれ、現在も「妙本寺」境内に残されています。(妙本寺境内、「竹御所のお墓」の近くにあります。)
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