「足利頼氏(あしかよりうじ)」は、足利宗家5代当主を務めた人物です。
父「足利泰氏」 、母は「北条時氏」の娘の間に生まれ、幼名は利氏(としうじ)を名乗りました。
室町幕府初代将軍「足利尊氏」の曽祖父です。
生涯
三男として生まれましたが、母が北条得宗家出身であることから嫡子となり、父「足利泰氏」から家督を相続し第5代当主となっています。
史書「吾妻鏡」に「足利三郎利氏」の名で度々登場しており、そのうち、建長8年/康元元年(1256年)8月11日の内容には、母方の伯父、5代執権「北条時頼」の長男「北条時輔」の元服の際の烏帽子親を務めたと記載されています。
「建長八年八月小十一日己巳。雨降。相州御息被加首服。号相摸三郎時利、後改時輔、加冠足利三郎利氏、後改頼氏」
将軍「宗尊親王」または、執権「北条時頼」からの推挙により「烏帽子親」を勤めたものと推測されています。
「吾妻鏡」に頼氏は度々登場し、その記載の大半は鎌倉幕府第6代将軍「宗尊親王」に仕える近臣としての行動となっています。
このころ、権力は第5代執権「北条時頼」が握っており、北条氏が擁立した将軍「宗尊親王」に近侍することによって、時頼への忠誠を示すための行為であったと推測されます。
晩年
頼氏は弓矢に優れ、「鶴岡八幡宮」での流鏑馬などで活躍していましたが、生来から病弱だったといわれており、弘長元年(1261年)の「鶴岡八幡宮」での行事(放生会)を病気で辞退したという上の記述を最後に史料に名前が見られなくなっています。
さらに頼氏がいつ亡くなったのかについても諸説あり、弘長2年(1262年)説、弘安3年(1280年)説、永仁5年(1297年)説などがあります。
特に近年では、弘長2年(1262年)説が有力とされています。
頼氏が亡くなると、足利氏嫡流の家督は側室(家臣・上杉重房の娘)との子「足利家時」(鎌倉では「報国寺」に墓所があることで知られています。)が跡を継いだとされています。
それまで足利氏の歴代当主は、第代北条家の女性が正室となっており、年上の子がいたとしても北条家との正室の間に生まれた子が家督を継いできました。しかし、家時は例外として家督を継いでいます。
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