「足利尊氏(あしかがたかうじ)」は、鎌倉幕府を滅ぼし、室町幕府初代征夷大将軍となった人物です。(在職:1338年~1358年)
「足利貞氏」の次男として生まれ、足利宗家第8代当主を務めた人物です。
生涯
尊氏は嘉元3年(1305年)、足利氏宗家第7代当主「足利貞氏」の次男として生まれました。
誕生した場所は、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)、丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(京都府綾部市上杉)、相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)で生まれたと諸説あります。
現在のところ、鎌倉誕生説が有力視されているようです。
母は側室で「上杉清子」、兄である「足利高義」は「北条顕時」の娘の子供でした。
元応元年(1319年)10月10日、15歳になると従五位下、治部大輔に任命され、同日に元服、第14代執権「北条高時」の偏諱を賜ると、高氏と名乗ったと言います。
当時足利家は、「源氏嫡流」を公認されるなど幕府内でも優遇されており、15歳の高氏は、得宗家、赤橋北条氏などに次ぐ待遇で、大仏・金沢流北条氏と同格の扱いとなっていました。
第16代執権を務めた「北条守時」の妹「赤橋登子」を正室として妻に迎えています。
そうする中、父「足利貞氏」が1331年に亡くなっています。墓所は鎌倉の史跡「浄妙寺」にあります。
ちなみに祖父「足利家時」は、「報国寺」とゆかりが深いなど、鎌倉「浄明寺・十二ヶ所エリア」は鎌倉における足利家の拠点となっていました。
元弘の乱での活躍・尊氏キレる
元弘元年/元徳3年(1331年)、「後醍醐天皇」倒幕のため、笠置で挙兵すると(元弘の乱)、「後鳥羽天皇」の2度に渡る倒幕計画に、鎌倉幕府は高氏に出陣の命令を下しました。
高氏は天皇の拠る笠置と「楠木正成」の拠る下赤坂城の攻撃に参加しています。
この出陣に当たって、父「足利貞氏」が亡くなり、喪中でしたが、出兵辞退を求めるも許されず、出陣を強制されてしまいました。
史書「太平記」によれば、このことから高氏が幕府に反感を持つようになり、喪中にもかかわらず高氏が出陣を求められた背景には、1221年に発生した「承久の乱」で「足利義氏」が大将の1人として「北条泰時」を助けて戦いの勝利に貢献してから、外部との戦いにおいて足利氏が大将として出陣するのが慣習となっていました。
幕府及び北条氏はそ慣習に従い、1221年の「承久の乱」も鎌倉幕府と朝廷との戦いであったことから、戦いの勝利を高氏に期待していました。
こういった慣習のせいで出陣を強制させられたものの、執権として大きな権力をもっていた北条氏が、多くの御家人を誅殺してきた中、足利氏を粛清しなかった理由であったとされています。
幕府の期待に沿い「元弘の乱」を勝利に導き、高氏の評価は上がりましたが、父「足利貞氏」の喪中での強制的な出陣だったため、同年11月他の大将を置いて朝廷に挨拶をせず鎌倉へ戻ったとされ(高氏キレる!いいぞ!やれやれ!)、「花園上皇」を呆れさせたとされます。(「花園天皇宸記」より)
京都で幕府へ反旗を翻す
元弘3年/正慶2年(1333年)「後醍醐天皇」は隠岐国から脱出すると伯耆国船上山に依って兵を募りました。
高氏は当時病でしたが、再び幕府からの命令で、倒幕勢力を駆逐するため、名越高家とともに総大将となり京都へ進撃しています。
このとき、高氏は妻「登子」と嫡男「千寿王」を連れ出陣しようとするも、鎌倉幕府は人質としてふたりを鎌倉に留めています。(すでに疑われていた???)
名越高家が早々に戦死しすると(私の勝手な主観ですが、これも怪しい気がします・・・わざと戦死させたのでは・・・)、「後醍醐天皇」の誘いを受けていた高氏は幕府と手を切ることを決め、4月29日、所領の丹波国「篠村八幡宮」(現在の京都府亀岡市)で倒幕の挙兵をしています。
諸国に倒幕への参加を呼びかけ、播磨国の「赤松円心」、近江国の「佐々木道誉」らの協力を得て京都へ向かい、5月7日に「六波羅探題」を攻め滅ぼしています。
関東方面では、上野国(現在の群馬県)の御家人である「新田義貞」が中心となり倒幕の挙兵をし、鎌倉を制圧して幕府を滅亡させています。
この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した「千寿王」も参加したとされます。
しかし、高氏の庶長子「竹若丸」は伯父に連れ出され脱出を試みるも、途中で北条家の追手により討ち取られています。
鎌倉幕府滅亡後~建武の新政
鎌倉幕府を討ち滅ぼすことに成功した高氏は「後醍醐天皇」から、従四位下、鎮守府将軍・左兵衛督への任命、30箇所の所領を授与され、元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日、従三位、武蔵守へ昇進すると、天皇の「尊治」から偏諱を受け「足利尊氏」と名乗ったとされます。
新政権が発足するも尊氏は政権への要職に就かず、足利家執事「高師直」、「高師泰」をはじめとする家臣を新政権に送り込んでいる(尊氏はめんどくさがりだったのでは・・・)。
天皇が尊氏を遠ざけたとする説や、尊氏自身が政権と距離を置いたという説があります。
世間はこの様子を「尊氏なし」と呼んだそうです。
中先代の乱
元弘3年/正慶2年(1333年)、「義良親王(のちの後村上天皇)」が陸奥太守となり、「北畠顕家」が鎮守府大将軍に任命され陸奥国に赴くと、尊氏は、「成良親王」を上野太守に押し上げると、弟の「足利直義」とともに鎌倉に配置しました。
また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった「護良親王」(鎌倉二階堂エリアの鎌倉宮に墓所があります。)は、尊氏を敵対視していたため、新政権への脅威となっていました。
建武元年(1334年)には父の命により捕らえられると、鎌倉の「足利直義」に預けられて幽閉されることとなりました。
建武2年(1335年)信濃国において、鎌倉幕府第14代執権であった「北条高時」の遺児「北条時行」を中心とした北条氏残党による「中先代の乱」が発生しました。
「北条時行」の反乱軍は鎌倉を一時占拠するほどの勢いでした。
直義は鎌倉を脱出する際に独断で「護良親王」を抹殺、尊氏は「後醍醐天皇」に征夷大将軍の官職を希望しましたが許可は得られず、8月2日、天皇の許可を得ず独断で軍を率いて鎌倉に向かいました。
天皇はやむなく征東将軍の官職を尊氏に与えています。尊氏は直義の軍勢と合流し相模川の戦いで「北条時行」に勝利すると、8月19日には鎌倉を反乱軍から取り戻しています。
建武の乱
弟「足利直義」の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめ、京都からの上洛の命令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。
11月、尊氏は「新田義貞」を奸臣であるとして朝廷に討伐を提案したが、朝廷はこれを受け入れず、逆に尊氏を討ち取るよう「新田義貞」に「尊良親王」をともなわせ軍を起こしました。
さらに北方の奥州から「北畠顕家」も攻め寄せていたことから、許しを得るため隠居を宣言し、尊氏は断髪し寺にひきこもっています。
しかし、両方面からの攻撃に、弟「足利直義」ら足利勢が劣勢となってくると、尊氏は朝廷を敵に回すことを決意し出陣しました。
このとき「直義が死ねば自分が生きていても無益である」とし出陣を決めたとされます。
12月、尊氏軍は新田軍を箱根・竹ノ下において撃破すると、京都へ上洛を開始しました。
この間、尊氏は持明院統の「光厳上皇」へ接触をはかり、戦いへの正統性を得ようと手を打っています。
建武3年(1336年)年明けとともに尊氏は京都へ軍を進めました。これにより「後醍醐天皇」を比叡山に退却させることに成功ました。
しかし、奥州から上洛した「北畠顕家」や「楠木正成」、「新田義貞」らの軍勢により戦いは劣勢となり、1月30日での戦いに敗れた尊氏は「篠村八幡宮」へ退却すると、そこから京都へ再度攻め上がろうと計画しました。
九州の「大友近江次郎」へ出兵の要請を依頼した尊氏の花押入りの書状が、2月4日付で出されている事から、このころ尊氏が京都近くに留まり、反撃の機会を伺っていたことが分かっています。
しかし、2月11日に摂津国において「新田義貞」の軍勢と戦いになり、尊氏は大敗したため京都奪還の作戦は失敗しました。
このため、尊氏は「赤松円心」による助言に従い、九州に下り再起を図ることとなります。
九州で再起を図る尊氏は「少弐頼尚」、筑前国宗像大社の「宗像氏範」らの支援を受け、延元元年/建武3年(1336年)3月初旬、筑前多々良浜の戦いで、「菊池武敏」に勝利すると、「大友貞順」など朝廷についた勢力を一掃し京に向かう途中には、「光厳上皇」の院宣を得て戦いに正当性を持たせようと図っています。
尊氏は西国の武士たちの協力を得ると再び京都へ軍を進め、5月25日の湊川の戦いで「新田義貞」、「楠木正成」に勝利し、6月、京都を再び手中に収めています。(延元の乱)。
京都を手中に収めた尊氏だったが、以前からあった遁世願望が再燃したようで、「この世は幻、すべての利益は弟の直義にお与えください。直義が無事に過ごせますように。」との願文を清水寺に納めています。(尊氏は不思議ちゃんなんですね・・・)
尊氏らは、比叡山へ避難していた「後醍醐天皇」の面目を立てる形で和議を結んでいます。
その後尊氏は「建武式目」十七カ条を制定すると、武家政権を打ち立てました。しかし、遁世願望の尊氏ではなく弟の「足利直義」の意向があったとされています。(意向は弟だけど、何かあるたびに頼られて達成しちゃう尊氏凄いですね・・・いつの時代も執着ない人が能力あったりするんですね・・・)
このころ、実質的に「室町幕府」が開かれたとされています。
尊氏は「源頼朝」と同じ権大納言に任命され、「鎌倉殿」と称しています。一方、「後醍醐天皇」は12月に京を脱出して吉野(奈良県吉野郡)へ逃亡すると、南朝を打ち立てました。
観応の擾乱
延元3年/暦応元年(1338年)、尊氏は「光明天皇」から征夷大将軍に任命されると、「室町幕府」が正式に発足されました。
翌年になり「後醍醐天皇」が吉野で亡くなると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を始めています。
南朝との争いは、「北畠顕家」、「新田義貞」、「楠木正成」の遺児「楠木正行」などを次々に討ち取り足利軍の優位に進みました。
「小田治久」、「結城親朝」らが南朝を離反して幕府に従い、正平3年/貞和4年(1348年)には「高師直」が吉野を攻め落として全山を焼き払っています。
「室町幕府」による新しい政治がはじまると、弟の直義に政務を全任し、尊氏は軍事と恩賞を統括しることで武士の頭領なりました。
しかし、尊氏と直義という権力の象徴が二人いることは、徐々に内部の対立を引き起こして行きました。
弟「足利直義」と「高師直」による派閥同士の争いが起き、「観応の擾乱」が発生し、内部抗争に発展した。
この結果、弟の直義は出家し政務を引退し「高師直」は高氏の子「足利義詮」を鎌倉から呼び戻し、次男「足利基氏」を鎌倉へ派遣すると「鎌倉公方」とし、鎌倉府を設置しています。
弟の直義が引退すると、子の「足利直冬」が九州で直義派と連携し勢力を強めました。
このため尊氏は直冬討伐のため中国地方へ遠征しています。
この間に弟の直義は京都から抜け出すと南朝へ降伏し、「桃井直常」、「畠山国清」などの直義を支持する武将たちも南朝へ降りました。
「足利直義」の勢力が強大になると、「足利義詮」は京を離れ、京に戻ろうとした尊氏も光明寺合戦や打出浜の戦いで敗れています。
尊氏は「高師直」「高師泰」兄弟を出家、配流することを条件に、弟の直義と、正平6年/観応2年(1351年)和睦しています。
この交渉において尊氏は、直義への使者に「高師直を誅殺すつことを許可する」旨を伝えるよう命じたという記録が残っています。
足利家の執事として活躍した「高師直」ら高一族は、護送中に「上杉能憲」により討たれています。
「上杉能憲」は高一族を父の敵として憎んでいたと言います。
直義は、義詮の補佐として政務に復帰した。上記の通り、この一連の戦闘の勝者は直義、敗者は尊氏であり、尊氏の権威は大きく失墜してもおかしくないはずである。ところが尊氏は全く悪びれる様子もなく、むしろ以前より尊大に振る舞うようになる。
敗北したはずの尊氏は、悪びれる様子もなく以前に増して尊大に振舞ったと言います。高氏を滅ぼした「上杉能憲」を流罪とし、勝者の直義派である「細川顕氏」と謁見した際には何故か降参してきたものとして扱い、自分は関係なく「高師直」と弟の直義の戦いであったと都合よく解釈していたとされています。(尊氏ぶっとんでるな・・・)
政務に復帰した直義は鎌倉幕府時代の「北条泰時」を理想としましたが、すでに時代の変わっていた状況に即していなかったとされ、尊氏側に付くものが多く出たようです。徐々に直義派は粛清されていき再び直義は政治の舞台からいんたいすることとなりました。
その後も尊氏は「佐々木道誉」の謀反を名目に近江へ、子の「足利義詮」は「赤松則祐」の謀反を名目として播磨へ出陣しています。
佐々木、赤松の謀反の真相は不明であり(後に尊氏にそれぞれ降伏しています。)、これは直義を討つための作戦であったとされ、このころ南朝と和睦交渉を行っています。
これに対し弟の直義は京を手放すと北陸を経由して鎌倉へ逃げ延びています。
正平一統と呼ばれる、尊氏と南朝による和睦が成立すると、直義追討を南朝から正式に受けています。
南朝と和睦が成ったことにより、尊氏が建てた北朝の「崇光天皇」は廃位となっています。
そして尊氏は直義を追って東海道を行き、各地で戦いに勝利をおさめ、直義を捕らると鎌倉に幽閉しました。
弟「足利直義」は、正平7年/観応3年(1352年)2月、「高師直」の一周忌に突然亡くなったとされます。
「太平記」の記載によると、尊氏による毒殺の疑いを匂わせるように描かれています。(高師直の一周忌に弟を誅殺したとすれば、尊氏は中々のサイコパスですね・・・)
晩年
尊氏が京から離れている間に南朝との和睦は破棄され、「宗良親王」、「新田義興」、「新田義宗」、「北条時行」などの南朝勢力が攻め寄せたため、尊氏は武蔵国へ退いています。
しかし、すに逆襲すると関東の南朝勢力に勝利し鎌倉を奪還しています。(武蔵野合戦)。
京都方面では、嫡男「足利義詮」が南朝に敗北し京都を奪われ、北朝の「光厳上皇」や皇太子「直仁親王」を拉致してしましました。
これにより天皇家を失った「足利政権」の正当性はなくなり窮地に陥ります。
しかし近江へ逃れた「足利義詮」はすぐに京へ攻め上り再度奪還に成功しています。(八幡の戦い)
「佐々木道誉」が「後光厳天皇」を擁立し北朝を復活させると、足利政権の「室町幕府」も正当性を取り戻しました。
しかし、再び南朝側の「山名時氏」と「楠木正儀」が京を襲い占拠しています。
尊氏は義詮の援軍要請により上洛し、義詮とともに京都を制圧しました。
正平9年/文和3年(1354年)には「足利直冬」を中心とする旧直義派が京都へ攻め寄せました。
「足利義詮」の活躍と、最終的に尊氏が直冬の本陣を攻め落としたことにより、敵方を敗走させることに成功しています。
尊氏は「島津師久」の求めに応じて「足利直冬」や「畠山直顕」、「懐良親王」討伐の兵を募りますが、嫡男の「足利義詮」に止められています。
正平13年/延文3年(1358年)4月30日、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)で亡くなったとされ、背中の腫れ物の悪化が原因であったとされています。
「後深心院関白記」の記録によれば、延文3年(1358年)5月2日庚子の日付に、尊氏の葬儀が「真如寺 (京都市)」 で行われたとあります。
5月6日甲辰の条の初七日からの中陰法要は、「等持院」において行われたとあり、 墓所は京都「等持院」と鎌倉「長寿寺」です。
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