「北条煕時(ほうじょうひろとき)」は、鎌倉幕府12代執権を務めた人物です。(在職期間:1312年~1315年)
父は「北条為時 」、第7代執権「北条政村」の曾孫にあたります。母は第9代執権の「北条貞時」の娘です。
「北条政村」~鎌倉幕府第7代執権(第3・5代連署)~
「北条政村(ほうじょうまさむら)は、鎌倉幕府第7代執権(在職期間:1264年 ~1268年)、第3、5代連署を務めた人物です。 第2代執権「北条義時」の五男として生まれ、…
目次
生涯
弘安2年(1279年)、「北条為時」の子として生まれ、初名は貞泰、後に煕時と改名しています。
引付衆などを務め、嘉元3年(1305年)に長門探題となりました。
同年の4月に「嘉元の乱」が起こり、祖父であった「北条時村」(北条政村の子で為時の父)が討たれ、続いて「北条宗方」らが第9代執権「北条貞時」に滅ぼされましたが、煕時は生き残りました。
延慶2年(1309年)3月に引付再編が行なわれて1番頭人となっています。
4月9日には寄合衆に加えられると、煕時は得宗の「北条貞時」や「金沢貞顕」らと共に幕政を主導する1人になったとみられています。
応長元年(1311年)9月に第10代執権の「北条師時」が亡くなると、連署から昇格した「北条宗宣」が第11代執権に就任しました。
10月3日に煕時は連署に就任しています。
正和元年(1312年)6月2日に「北条宗宣」が出家すると「北条高時」が執権になるまでの中継ぎとして、第12代執権の職に就きました。
しかし、内管領の「長崎円喜」が権力を握っており政治に深く関わることは出来なかったと見られています。
煕時が執権に就いている期間、連署を置く事はありませんでした。
正和4年(1315年)7月11日に執権職を辞任すると「北条基時」に譲り、同日に出家して道常と号しました。
7月18日に病のために37歳で亡くなりました。
歌人でもあった煕時は、「玉葉和歌集」「新後撰和歌集」に歌が収録されています。
「北条基時」~鎌倉幕府第13代執権~
「北条基時(ほうじょう もととき)」は、鎌倉幕府の第13代執権を務めた人物です。(在職期間:1315年~1316年) 「普恩寺 基時(ふおんじ もととき)」とも呼ばれてい…
鎌倉幕府執権を務めた「北条氏」の人物まとめ
「執権(しっけん)」は、鎌倉幕府の実質上の最高責任者の職名。鎌倉幕府将軍を補佐し、政務を統轄する重要なポジションでした。 一般的なイメージとして、鎌倉幕府初代…
コメント