「北条基時(ほうじょう もととき)」は、鎌倉幕府の第13代執権を務めた人物です。(在職期間:1315年~1316年)
「普恩寺 基時(ふおんじ もととき)」とも呼ばれています。
父親は普恩寺流「北条時兼」子に鎌倉幕府滅亡前、最後の六波羅探題北方となった「北条仲時」がいます。
生涯
正安3年(1301年)6月7日に六波羅探題北方として京都へ上洛しています。
乾元2年(1303年)10月20日、六波羅探題北方を辞職すると、鎌倉において評定衆に加わったとされます。
嘉元3年(1305年)8月22日、引付衆となり、延慶3年(1310年)には信濃守護に任命されています。
執権として
正和4年(1315年)7月11日に、第12代執権「北条煕時」が病のため執権職を辞任すると、後任の執権として就任しています。
「北条煕時」とは第7代執権「北条政村」を曽祖父に持ち、血縁的にはとこでした。
このころ既に幕政は内管領の「長崎高資」に権力を握られていました。
正和5年(1316年)になると得宗家の「北条高時」を執権に就ける準備が進められ、同年の7月9日に第9代執権「北条貞時」の息子「北条高時」に執権職を譲り、11月20日に出家ています。
執権職を譲ってからは、政治活動の記録が見えなくなっています。
晩年
元弘元年(1331年)9月、「後醍醐天皇」の倒幕計画により「元弘の乱」が発生すると、「北条高時」が派遣した畿内の反幕勢力への派兵に加わっています。
元弘3年、正慶2年(1333年)5月、鎌倉幕府を打倒するため「新田義貞」らが挙兵して鎌倉攻め寄せると、「北条貞顕」をはじめとする御家人らと共に化粧坂(現在の源氏山公園の近く)の守備を務めました。
基時はよく戦ったようですが、5日間の激戦の末に極楽寺坂や巨福呂坂などいくつかの攻め口を打ち破り、新田軍が鎌倉市街に侵入しました。
この合戦の2週間前に近江番場で自害した嫡子の「北条仲時」を追うようにして部下と共に自害、48歳でなくなっています。
「待てしばし、死出の山辺の、旅の道、同く越て、浮世語らん」と辞世の句を読んでいます。
自分より先に自刃した子の「北条仲時」の事を思って詠じた歌と言われています。
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