「北条貞将(ほうじょうさだゆき)」は、鎌倉幕府第17代執権を務めする説がある人物です。
父は、鎌倉幕府15代執権「北条貞顕」、母「北条時村」の娘の子として生まれました。
倒幕の気配が高まる中で各地を転戦し、最後は「新田義貞」に敗れ、父と共に最期を遂げています。
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生涯
「金沢文庫古文書」によれば、文保2年 (1318年)、評定衆、引付五番頭人などを務め、正室を迎えたようです。
正中元年(1324年)9月19日、「正中の変」が発生、11月16日には京へ向かい六波羅探題南方となっています。
元徳元年(1329年)より父「北条貞顕」の働きかけなどにより、鎌倉に帰還しています。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月8日、倒幕の挙兵が行われると、これを迎え撃つなどしていますが、敗れています。
鎌倉に戻り軍勢の再編に努め、洲崎の戦いで第16代執権「北条守時」が新田義貞に敗れると、守時に代わって巨福呂坂を防備しています。
この時、14代執権を務めた「北条高時」から、先の戦いで亡くなった、「北条守時」の後任として執権(第17代執権)に任用されたとする説があるようです。
その後も倒幕軍と戦い、戦死しています。
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