「比企能員(ひきよしかず)」は、「源頼朝」の乳母を務めた「比企尼」の甥で、やがて養子となった人物です。
祖先は「藤原秀郷(ふじわらひでさと)」の流れを汲むとされています。
「比企尼」が頼朝と関係が深かったことから、鎌倉幕府第2代将軍「源頼家」の乳母父となり、娘の「若狭局」は、頼家に側室として嫁ぎ「一幡」を産み権力を持ちました。
「比企能員」に権力が集中することを恐れた鎌倉幕府初代執権「北条時政」と対立したことにより、「比企能員の変(比企の乱)」が発生すると、比企一族はそのほとんどが滅ぼされてしまいました。
生涯
寿永元年(1182年)8月12日、「比企能員」の屋敷において、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」の正妻であるが「源頼家」を出産します。
能員の伯母「比企尼」は、かつて頼朝の乳母を務めており、流人時代から数十年にわたり忠節を尽くして来たことから、甥である能員を猶子として推挙し、能員が頼家の乳母父に選出されました。
能員はこの後も頼朝から信頼され側近として仕えました。
平氏との戦い
元暦元年(1184年)5月、「源義高」討伐軍に参加し信濃国(現在の長野県)に出陣しています。
同年8月には平氏追討軍に参陣し、元暦2年(1185年)3月、「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅びると、捕虜として鎌倉に送られた平家の総大将「平宗盛」と頼朝が対面したとき、頼朝の言葉を伝える役目を務めました。
この後、上野、信濃国守護に任命され、文治5年(1189年)の「奥州合戦」には北陸道大将軍として参陣、建久元年(1190年)の「大河兼任の乱」には東山道大将軍として参陣しています。
同年、頼朝が京都へ上洛すると、右近衛大将を拝領する際の随兵7人の内に選ばれています。
さらに、頼朝に御家人10人の成功推挙が与えらると、能員も推挙され右衛門尉に任ぜられています。
建久9年(1198年)に、娘の「若狭局」が頼家の側室として迎えられ、「一幡」を産むと外戚として権力を強めました。
正治元年(1199年)1月に「源頼朝」が亡くなると、「十三人の合議制」の1人に加えられ、「梶原景時」排斥の中心人物の一人として参加しました。(梶原景時の変)。
北条家との対立
建仁3年(1203年)、鎌倉幕府第2代将軍「源頼家」が病に倒れ、8月になると危篤になりました。
史書「吾妻鏡」の記載によると、8月27日「北条時政」は「一幡」と頼家の弟「源実朝」に頼家の遺領相続の分与を取り決め、関東28ヶ国地頭職と日本国総守護職を「一幡」、関西38ヶ国地頭職を「実朝」に相続する事を取り決めました。
「北条時政」の決定に納得のいかない能員は、頼家に時政の決定を相談すると、頼家は時政を討ち取るよう追討令を命じました。
しかし、この話を時政の娘「北条政子」が聞いていたとされ、これを知った時政が先手を打ち「大江広元」の協力を得て、能員を時政の屋敷がある名越邸へ呼び出しました。
この時、比企一族の郎党はそろって引き止め、武装して向かうように勧めましたが、「武装することはかえって怪しまれるだろう。」と耳を貸さず、平服で時政の名越邸へ向かいました。
屋敷に着いたところ、武装していた「天野遠景」、「仁田忠常」ら時政の配下に取り押さえられ、そのまま討ち取られてしまいました。
一族の長である能員が討ち取られたと知らせを受けた比企一族は、「一幡」の小御所に籠り戦うも、大軍を相手に形成は不利となり、屋敷に火を放つと一族そろって自戒したとされます。
「一幡」も火に包まれ亡くなったとされ、焼け跡から小袖の切れ端を乳母が見つけたと言われています。(鎌倉「妙本寺」の境内に「一幡」の袖塚が残されています。)
この戦いは「比企能員の変」と呼ばれ、比企一族のほとんどが亡くなったとされています。
京都側から鎌倉を見た史書「愚管抄」の記載によれば、「源頼家」は、「大江広元」の屋敷に滞在中に病気が進行したことから、自ら出家し「一幡」に家督を譲ろうとしたところ、この流れが比企一族の権力を強めると恐れた「北条時政」が、能員を謀殺し、「一幡」をはじめとする比企一族を滅ぼしたとしています。
「一幡」は乳母が抱え脱出を図るも、時政の子で、後に鎌倉幕府第2代執権を務める「北条義時」の配下に捕まり殺害されたとしています。
鎌倉の「妙本寺」の境内に比企一族のお墓がお祀りされています。
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