大江 佐房(おおえすけふさ)は、初め鎌倉幕府、後に朝廷に仕えた「大江広元」の嫡男として生まれ、祖父に鎌倉幕府の創成期に「源頼朝」を支えた「大江広元」がいます。
生涯
承久3年(1221年)「承久の乱」で父「大江親広」は朝廷側に味方し、祖父「大江広元」と共に鎌倉幕府側として戦いました。
東海道方面軍に加わり6月6日「北条時氏」、「北条有時」に従い朝廷軍と戦いました。
この時、上皇方は矢も射ずに敗走したとされ、鎌倉方「伊佐行政」が「山田重忠」に勝利すると、佐房は独り踏みとどり、「鏡久綱」を討ち取っています。
6月8日、「足利秀康」や「筑後有長」らが敗戦し京都へ帰還すると、朝廷は騒然としたとされ、「仲恭天皇」らは比叡山へ避難しています。
9日、鎌倉幕府第2代執権「北条義時」が殺害されたという噂が流れ、翌10日天皇らは京都へ戻った。12日、父「大江親広」が上皇側として2,000騎を率いて出陣、食渡(岐阜県羽島郡岐南町)に陣を敷しましたが、14日の「宇治川合戦」で朝廷軍が敗北の知らせを受けると、兵を残し一人行方をくらましています。
「承久の乱」が終わると、信濃国上田荘を与えられ幕府中枢で働くこととなり、尼将軍「北条政子」をはじめ、将軍や北条氏に側近として仕えました。
嘉禄元年(1225年)5月には、「鶴岡八幡宮」で1,200人が納経する僧供養を監督する役目を務めています。
将軍「藤原頼経」の引越しでは諸大夫筆頭を務め、寛喜2年(1230年)将軍頼経の内々に行われた「竹御所」との結婚の儀にも関わっています。
将軍および正室「竹御所」にそばに近侍しましたが、文暦4年(1234年)「竹御所」は亡くなっています。
宝治元年(1247年)嫡男「大江佐泰」が亡くなってしまいました。翌年の宝治2年(1248年)を境に歴史の史料から名前が見られなくなっています。
信州上田氏の祖となりましたが、弘安8年11月17日(1285年12月14日)に「安達泰盛」と「平頼綱」の対立から発生した「霜月騒動」で没落してしまいました。
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