「大江親広」~初め「源頼家」に仕え「承久の乱」では朝廷側に~

「大江親広(おおえちかひろ)、鎌倉幕府政所初代別当を務め幕府の創成期に活躍した「大江広元」を父とし、母「多田仁綱の娘」の間に長男として生まれました。妻に「北条義時」の娘「竹殿」を迎えています。

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生涯

史書「吾妻鏡」の記載では、正治2年(1200年)2月記事から登場し、この時、右近大夫将監として記載されています。
鎌倉幕府2代将軍「源頼家」に仕えましたが、「比企能員の変」での動向は、「吾妻鏡」に記載がなくどの行動は謎に包まれています。

建仁3年(1203年)10月、「源実朝」が第3代鎌倉幕府将軍に就任し、その元服の際、「北条義時」と共に元服式の手配をっています。11月鎌倉「永福寺薬師堂」の管理を命じられており、父「大江広元」が幕府内での地位が高かったことから、将軍実朝に寺社奉行として重用され、北条氏からも第2代執権「北条義時」の娘婿として厚い信任を受けていました。

承元3年(1209年)頃になると、遠江守に就任し、政所別当の一人となっています。
建保2年(1213年)寒河江荘の大沼大行院浮島稲荷本社拝殿を修復工事しています(承久の乱ののちにこの地に隠棲し、家臣たちは寒河江氏の配下として働きました。)。

建保3年(1215年)4月京都の御家人の監督役を務め、6月には将軍「源実朝」の代わりに「栄西」の臨終に立ち会っています。
建保4年(1216年)6月父の大江復姓に合わせて自らも大江を名乗りました。建保5年(1217年)5月武蔵守に任命されると、政所家司の一員を務めることになりました。

建保7年(1219年)1月、鎌倉幕府第3代将軍「源実朝」が頼家の子「公暁」に暗殺されたことにより出家すると、「蓮阿」と名乗っています。
同年2月、「伊賀光季」と共に京都守護に任命されると京都へ上洛し、翌年一時的に鎌倉に戻ると、「北条義時」、「北条時房」、「大江広元」らと会合を行っています。

承久3年(1221年)の「承久の乱」では「後鳥羽天皇」の招きに応じ朝廷側につき、近江国食渡にて幕府軍と戦うも、配線し京都に帰還しています。
この戦いでは父「大江広元」は幕府軍を編成し上洛作戦を取るべきと進言し鎌倉軍を鼓舞し、嫡男「大江佐房」は鎌倉側東海道方面軍に加わると幕府軍の勝利に貢献しています。佐房は「承久の乱」が終結すると、上田荘を与えられ幕府要職に就任しています。

「承久の乱」が終結したのちは、祖父の「多田仁綱」が目代を務める出羽国(現在の山形県)寒河江荘に隠棲していたとされています。
「承久の乱」後に離別させられた妻「竹殿」は、後に「土御門定通」の側室となり、「後嵯峨天皇」との関係が深いモノとなっています。

その後の足跡と晩年

「承久の乱」により親広は歴史の中心から姿を消しますが、隠棲したとされる寒河江荘にはその後の足跡が残されています。父「大江広元」が嘉禄元年6月10日(1225年7月16日)に亡くなると、息子「大江佐房」に使いを送り阿弥陀如来の尊像を彫刻させ、胎内に広元の遺骨を納めて出羽国寒河江荘吉川(山形県西村山郡西川町)の阿弥陀堂に安置したとい言い伝えられています。

「多田仁綱」が別当をつとめ、 天福2年(1234年)「多田仁綱」が亡くなると阿弥陀堂脇に葬られています。
仁治2年(1241年)12月15日に親広が亡くった際には、自身も阿弥陀堂の傍らに葬られたとされ、寒河江荘は次男「大江高元」が若くして亡くなると、鎌倉で幕府の要職にいた三男「大江広時」が相続しています。

後に寒河江荘は北条氏の所領となっており、所領回復を図るなどしていた様子が伺えます。

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