「北条義政(ほうじょうよしまさ)」は、鎌倉幕府第6代連署を務めた人物です。(在職期間:文永10年(1273年)6月17日~建治3年(1277年)4月4日)。
信濃国塩田荘を所領として住んだことから、義政から孫の「北条俊時」までの3代を塩田北条氏と呼ぶことがあります。
六波羅探題北方や連署を務めた「北条重時」の五男として生まれています。母は側室の「少納言局」。
生涯
初め「時景(ときかげ)」と名乗っており、のちに「義政」と改名しています。「北条重時」の五男なのですが、「北条時政 以来後見次第」の記載によると、義政は四男とあり、すぐ上の異母兄「北条業時」が五男であるとされ、母親の出自などで、序列が入れ替わったと推測されています。
鎌倉幕府第6代将軍「宗尊親王」を主君として、引付衆、評定衆、二番引付頭などを歴任しています。
このように幕府の重要職を歴任し、文永10年(1273年)、叔父「北条政村」が亡くなったことから、後任として連署となり第8代執権「北条時宗」を補佐しています。
元寇時のエピソードと晩年
文永12年、建治元年(1275年)、元の皇帝「フビライ・ハーン」から送られた「杜世忠」らの使者たちを執権の「北条時宗」が処刑を決定した際、和睦の道を探るためこれに反対してます。
「関東評定伝」の記載によれば、義政は体調がすぐれず出家を望んでいたそうで、、義政は「文永の役」以後、連署として活躍していなかったと見られ、建治2年前後には書状への花押が見られなくなっています。
建治3年(1277年)4月に突如連署を辞し、善光寺に出奔した後、出家したとされます。政義(せいぎ)と法名を名乗り。
翌5月信濃国塩田荘に隠居したと見られます。41歳で亡くなくなりました。(建治三年記記載による)
長野の塩田には、「北条義政」創建と言われる「安楽寺」の「八角三重塔」が現存しています。
義政は教養が高かったと見られ、「新後撰和歌集」「玉葉和歌集」、「続千載和歌集」などの歌集へ多くの作品が収められています。
義政が出家し引退したことは、病気であるとする説や、長野塩田荘の地盤固めの為であるとする説などがあります。
義政は「安達泰盛」の室が同母姉妹であり、泰盛と「平頼綱」との対立によって義政の立場が不安定なものになり、義政の引退後には極楽寺流の義政にとって本家に相当する「北条義宗」が評定衆なっていることなどから、本家への配慮、そのほかには第8代執権「北条時宗」による引き止め、義政が出家引退したあと人事が迅速であったことから、得宗家の政治事情が関係しているとする説もあるようです。
鎌倉の名越に住居があり、重時流としては変わった状況だったようです。義政の拠点となっていた、長野塩田荘は、鎌倉文化を感じさせる寺社や文化遺産が多数現存しています。
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