今回は、神奈川県鎌倉市にある「明王院(みょうおういん)」をご紹介します!
「源頼朝」から始まった鎌倉幕府将軍家である源氏の血が絶えた後、将軍として迎えられた「藤原頼経」とゆかりのあるお寺です。
藤原頼経と五大明王を祀る。鎌倉「明王院」へアクセス
鎌倉「明王院(みょうおういん)」へのアクセスは近くの県道204号から。
「明王院」よりさらに県道204号を進むと「光触寺」があります。
「光触寺」の記事に鎌倉からの「明王院」付近へのバス&徒歩でのアクセス方法が書いてあります。
鎌倉の奥地に興味ある方や、行かれる方は参考にしてみてくださいね→(鎌倉最奥の寺「光触寺」へアクセス!時宗「一遍上人」と「頬焼阿弥陀」)
「明王院」へのアクセスは、県道204号沿いにある、テニススクールの看板が目印と言えば目印かなと・・・
この先へ行くとミニストップがあります。ここを左へ入ると、橋があります。
もし「明王院」へのアクセスするには、このミニストップまで来てしまったら間違いです。
ちょっと行きすぎちゃってます。
ちなみにこの辺りはあんまりトイレないので、ここで用を足すのもありですね。
先ほどのテニスサークルの看板がある場所を左へ入ります。
しばらく歩くと「明王院」の入口へアクセスできます。
「明王院」の入り口はシンプルな感じですね。
1月28日には初不動があるようです。
記事を書いてる段階では終わってしまっていますが・・・
石に刻まれた「明王院」の文字。
五大明王で有名とのこと。
初不動の看板。
「お不動さん」と言えば不動明王のイメージですね。
「明王院」では護摩を焚く法要があるみたいです。
明王院の歴史と五大明王,鎌倉幕府4代目将軍「藤原頼経」について
明王院と藤原頼経について
明王院は1235年に、鎌倉幕府四代将軍の藤原頼経(ふじわらよりつね)が建てたお寺です。
鎌倉幕府将軍が発起人となった、鎌倉でも唯一のお寺とのことです。
鎌倉のみならず江戸幕府などでも幕府を開く場所には風水などが取り入れられています。
「明王院」は鎌倉幕府の鬼門の方角に当たります。
十二所に鬼門封じの祈願所として、五大明王を安置しています。
不動明王(ふどうみょうおう)、大威徳明王(だいいとくみょうおう)、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)を総称して五大明王としています。
明王院は鎌倉幕府、将軍家のとして祈願を行ってきました。
五大明王の前で護摩法要をすると、強い願いもかなえられるそうです。
鎌倉時代、モンゴル帝国が海を渡り襲ってきた元寇のとき、明王院で異国降伏の法要が修された記録が残っているそうです。
鎌倉では「明王院」が唯一、五大明王を祀っている寺院です。
毎月28日の午後一時から「明王院」本堂において「お不動様」の縁日として護摩法要を行っています。
五大明王
絵画や仏像などの作品においては、不動明王を中心として、東に降三世明王(ごうざんぜみょうおう )、南には軍荼利明王(ぐんだりみょうおう )、西に大威徳明王(だいいとくみょうおう )、北に金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう )が祀られていることが多いようです。
この配置の仕方は、「弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)」で有名な真言宗の密教のものです。
空海のライバルであった???「最澄(さいちょう)」の天台宗に伝承される密教では金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の代わりに烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう )が五大明王の一人として数えられることもあるようです。
五大明王像は日本で多く制作されました。
中国でも多少制作されたものが残っているそうです。
密教が平安時代に盛んだったため、寺院の本尊として五大明王が祀らることが多かったようです。
正面入り口には、竹で出来た花挿しが。
ウメかなキレイだこと。
可憐。
藤原頼経について
藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代目将軍であり、征夷大将軍でした。
両親の九条道家と西園寺公経の娘・倫子はともに「源頼朝」の血縁でした。
誕生したとき寅年・寅日・寅刻だったことから、幼名を三寅(みとら)と名付けられる。
鎌倉幕府初代将軍「源頼朝(みなもとのよりとも)」の血縁だったことから4代目将軍に選ばれました。
妻だったのは源頼家(頼朝の息子)の娘竹御所(たけのごしょ)です。
竹御所は出産のときに、母子共に亡くなってしまいます。
このことにより源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶してしまいました。
1219年に3代将軍・源実朝が暗殺された後、幕府は天皇家の血筋を将軍に迎えようと計画します。
幕府の御家人一同が連署した上奏文を京都へ送ったが、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に断られてしまいます。
そのため源頼朝と血縁があった、当時2歳の藤原頼経が鎌倉に迎え入れらます。
鎌倉に来てからは、頼朝の妻である北条政子(ほうじょうまさこ)が幼かった頼経を補佐して政治を取り仕切りました。
1226年に鎌倉幕府の4代目将軍となります。
1230年には2代将軍・源頼家の娘で15歳年上の竹御所を妻に迎える。
当初は将軍としての実権はありませんでした。
しかし、年を経て官位を高めていくにつれ、北条朝時(ほうじょうともとき)を中心とした反執権政治勢力が藤原頼経を担ぎ、幕府内での権力を徐々に強めていきました。
また、父の道家と外祖父が徐々に権力を持ち始めます。
北条氏を快く思わない父の道家が関東で有力者となると、道家が幕政に介入を試みるようになって来ました。
そのため、藤原頼経は執権であった北条経時(ほうじょうつねとき)により、1244年に将軍職を嫡男の頼嗣に譲らされてしまいます。
1245年には鎌倉で出家、行賀(ぎょうが)と名乗ります。
その後も鎌倉に在り続け、勢力を保っていました。
1246年に当時の執権北条時頼(ほうじょうときより)を排除する動きを察知され、京都に送られてしまいます。
1247年には鎌倉帰還を図るが失敗します(宝治合戦)。
1252年には息子の藤原頼嗣(よりつぐ)が将軍職を解任され、京都へ送還された。まもなく父・道家は失意の内に没した。
1256年に赤痢のため39歳で京都でなくなります。次の月には息子の藤原頼嗣も死去している。
立て続けになくなったことから、暗殺されたのではないかという説もあるそうです。
藤原頼経、頼嗣の二人は、摂家将軍、公家将軍、藤原将軍などと呼ばれることもあるようです。
鎌倉「明王院」を正面入り口から撮った境内・・・境内における写真撮影は禁止されていました。
これが限界でしたので、ホームページから画像をお借りしました。
ページ下部↓↓↓にまとめて置いておきますね。
そういえば「明王院」近くにはお茶の道場があったりしました。
「宗偏龍不審庵茶道場(そうへんりゅうふしんあん ちゃどうじょう)」
ここからはすべて「明王院」さんからの借り物画像です。
護摩法要のときは境内がたくさんの人でにぎわうみたいです。
色鮮やかですね。
梅の花も咲き始めてる。
「明王院」境内の写真。
水がめの中でしょうか、カエルが可愛いな。
ちょっとメダカっぽくないですか???色とか。
春の「桜」の前には「梅」が咲きますね。
小さな花弁が愛らしい。
梅をアップで!
「明王院」は雪が降るとこんなに美しい。
確実に春は近づいて来てますね。
これから暖かい春になって来ます。
良いことありそう。
感想&まとめ鎌倉「明王院」アクセス付きGoogleマップ
「明王院」へアクセスいたしましたが、山のふもとのなかなか空気の良いところでした。
日当たりも良いので、桜の季節などに訪ねても良さそうです。
しかし、写真が撮れない場所だと記事も短めになりますね。
「明王院」境内は写真撮ってみたい場所だったのですが、残念!!!
鎌倉「明王院」基本情報
住所 神奈川県鎌倉市十二所32
拝観料 無料(本堂内は見学不可)
拝観時間 9時~16時
電話 0467-25-0416
交通アクセス
鎌倉駅から京急バスで「鎌23・5番」太刀洗行き、もしくは「鎌24・5番」金沢八景行き 十二所 下車 徒歩2分ほど
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