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鎌倉幕府第13代連署「北条維貞」

「北条維貞(ほうじょうこれさだ)」は、鎌倉幕府第13代連署を務めた人物です。

父親は鎌倉幕府第11代執権と務めた「北条宗宣」。六波羅探題南方や連署なども務めた人物です。

大仏流北条氏の流れを汲み「大仏維貞(おさらぎこれさだ)」と呼ばれることもあります。

目次

生涯

弘安8年(1285年)第11代執権「北条宗宣」の子として誕生しています。生年に関しては諸説あるようです。

得宗家で第9第執権「北条貞時」より偏諱を受けており、「貞宗(のちに惟貞に改名)」と名乗っています。

嘉元2年(1304年)7月10日、引付衆に任じられ、小侍奉行、評定衆、引付頭などを歴任しています。

正和4年(1315年)、六波羅探題南方に任命され京都へ上洛し、西国と畿内地方の取り締まりに従事しました。

元亨4年(1324年)に入ると鎌倉への帰還を命じられ、後任となる「北条貞将」へ六波羅探題の職を譲っています。

この引継ぎによる合間をぬって「後醍醐天皇」たちによって、9月に「正中の変」が起きています。
そして変後の10月30日、評定衆に抜擢されています。

正中3年(1326年)4月24に鎌倉幕府第13代連署に就任し、第16代執権の「北条守時」を補佐しています。

連署に就任するも、間もなく病に倒れ、出家した後、嘉暦2年(1327年)9月7日に43歳で亡くなっています。

惟貞が亡くなると嫡男「北条高宣」が家督を継ぎましたが、まもなく早世しており、弟の「北条家時」が家督を継ぎました。

大仏流北条氏の一族は、鎌倉幕府滅亡時に当主の家時が自決、その他の子、貞宗、高直らが降伏後に処刑され亡くなっています。

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