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「足立遠元」~古くから源氏に従い十三人の合議一人となる~

「足立遠元(あだちとおもと)」は、「源頼朝」の父「源義朝」の頃から源氏に付いて戦い、後に鎌倉幕府の十三人の合議制の一人となった人物です。

目次

生涯

足立氏は武蔵国足立郡(現在の東京都足立区周辺)に地盤を持つ一族で、遠元の父親は「藤原遠兼」で遠元の時代から足立を名乗ったとする説や、系譜を追った史書「 尊卑分脈 」によれば藤原北家魚名流の末裔で、同じく頼朝に仕えた「安達盛長」は弟であるとされています。

他にもいくつかの説があり、遠元より以前の系譜ははっきり分かっていないようです。

はじめ「平治の乱」で「源義朝」の陣において「源義平」の騎下として戦ったとされ、「治承・寿永の乱」では早くから頼朝の命に従い、 「豊島清元」「葛西清重」らとともに関東武士として真っ先に頼朝の元へ参陣すると武蔵国足立郡の所領を安堵され多と言います。

元暦元年(1184年)10月6日、公文所の1人に選ばれたとされます。(公文所の人員は5名だったとされます。)

頼朝に付き従い様々な功績を上げて行き、頼朝が亡くなると、鎌倉幕府第2代将軍「源頼家」の代に決められた「十三人の合議制」の1人に「安達盛長」とともに参加しています。

史書「吾妻鏡」の記載にその名が見られなくなるのは、承元元年(1207年)3月3日条の闘鶏会参加の記事が最後の様で、かなりの老齢に達していたと推測され、その頃亡くなったのではとされています。

遠元の娘は朝廷に近い「藤原光能」に嫁いでおり京都に縁戚を作り、他にも「畠山重忠」「北条時房」に娘たちを嫁がせ幅広い婚姻関係を築いていました。

武士でありながら文官の要素も持つ文武両道の人物であったとされています。

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