「安達長泰(あだちながやす)」は「安達時長」の嫡男として生まれました。
安達氏の庶流で、所領である大曾禰荘(現在の山形県山形市)から苗字を取り、大曾禰を名乗り「大曾禰長泰」とも呼ばれています。
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生涯
史書「吾妻鏡」の記載によれば、初めてその名が登場するのは嘉禄元年(1235年)6月、鎌倉幕府第4代将軍「藤原頼経」の御大堂供養で剱を持する役を務めたとあります。このとき25歳でした。
寛元3年(1245年)に左衛門尉に任命され、宝治元年(1247年)6月、将軍派の三浦氏と執権北条家についた安達家によって起きた「宝治合戦」において、「安達義景」らと共に三浦氏攻撃に参戦しています。
「宝治の乱」が終わった8月に幕府の立場を朝廷に奏上するための使者を務めています。
建長元年(1249年)になると引付衆に抜擢され、建長6年(1254年)に上総介の任命を受けています。
これ以降、上総介は大曾禰氏が務める官職として受け継がれていきました。
弘長2年(1262年)8月12日、52歳で亡くなったとされています。
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