「北条泰家(ほうじょうやすいえ)」は。鎌倉幕府第9代執権「北条貞時」と母「大方殿」の間に四男として生まれ、同母弟の「北条高時」は鎌倉幕府第14代執権を務めました。
生涯
泰家は「相模四郎時利」と名乗っていましたが、正中3年(1326年)に、兄「北条高時」が病によって執権職を退くと、母「大方殿(覚海円成)」と外積に当たる安達氏一族は泰家を後継者に推薦しましたが、内管領を務め幕府の権力を握っていた「長崎高資」の反対にあい執権にはなれませんでした。
連署などを務めた北条氏庶流の「北条貞顕」が第15代執権となるが、泰家は辱められたとして出家し、多くの人間が泰家に同調し出家しました。
混乱の中、泰家15代執権「北条貞顕」を殺そうとしているといううわさが流れると貞顕は10日という短さで執権職を辞任し出家してしまい、後継者として「北条守時」が第16代執権となり、鎌倉幕府滅亡時の最後の執権となっています。(嘉暦の騒動)
正慶2年/元弘3年(1333年)、「新田義貞」が倒幕の挙兵をし鎌倉に攻め寄せてくると、幕府軍を率いて分倍河原にてこれを討ち破っています。
勝利を収めたものの、勝ち戦に油断したのか新田軍に大敗すると、家臣「横溝八郎」の活躍により鎌倉に帰還しています。
鎌倉幕府滅亡の際、兄「北条高時」と同行はせず、兄の子「北条時行」を逃がした後で、陸奥国へと落ち延びている。
鎌倉幕府滅亡後、京都へ向かい、旧知の「西園寺公宗」の邸宅に潜み幕府再興の機会を伺い、建武2年(1335年)6月に公宗と共に「後醍醐天皇」暗殺の計画を企むも、実行する前に計画が露見してしまい公宗は討たれています。
しかし、泰家は追手から逃れて全国の北条氏残党に反旗を翻すことを訴え、これに呼応した信濃の「北条時行」「諏訪頼重」が挙兵し、鎌倉将軍府を奪取しています(中先代の乱)。
晩年
史書「市河文書」の記載では建武3年2月に、南朝に呼応して北条氏の「丹波右近大夫」や地元の凶徒「深志介知光」達とともに信濃国麻績御厨で挙兵すると、北朝方の「小笠原貞宗」、「村上信貞」らと戦いを繰り広げたと書かれており、戦いの後の消息は不明とされています。
建武2年末に野盗によって討たれたとの説もありますが、「太平記」の記載にも、建武2年を最後に登場しなくなっているため、この前後に亡くなったものと推測されます。
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