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「大江広元」~鎌倉幕府初期のブレーンとして活躍した重鎮~

「大江広元(おおえひろもと)」は、「源頼朝」に仕える前は、朝廷の下級貴族でした、鎌倉に下り「源頼朝」の側近となると、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設や承久の乱などで重要な役割を果たしました。

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生涯

生年は「吾妻鏡」など複数の史書において嘉禄元年(1225年)に78歳で死去したと記載されていることから、久安4年(1148年)に生まれと推測されています。

広元の出自は謎に包まれており様々な推測がなされています。

「江氏家譜」では「藤原光能」の息子であるとされ、母親が再婚した「中原広季」のもとで養育されたとされます。
一方、「尊卑分脈」の「大江氏系図」には「大江維光」を実父、「中原広季」を養父とし、また、「続群書類従」の「中原系図」では「中原広季」を実父、「大江維光」を養父としています。(わけわかめ・・・)

中原姓を称していた期間が長く、「中原広元(なかはらひろもと)」を名乗り、大江姓に改めたのは建保4年(1216年)に陸奥守に任官してからであり、晩年の時期とされています。

広元の兄「中原親能」は「源頼朝」と親しく、早い時期から頼朝に仕えました。
寿永2年(1183年)10月に親能は頼朝の弟「源義経」の軍勢と京へ入り、翌年の元暦元年(1184年)正月に再び京へ入ると頼朝の代官として活躍しています。

兄の「中原親能」伝いに広元も頼朝の元で働くこととなり、公文所の別当を務めました。
さらに頼朝が二品右大将となり、公文所を政所と改めてからは、朝廷との交渉にあたるなどしています。
また史書「吾妻鏡」によれば、全国への守護・地頭の設置は広元の献策によるものを頼朝が採用したとされています。

正治元年(1199年)に頼朝が亡くなると、頼朝正室の「北条政子」や第2代執権「北条義時」と幕政にを主導しました。
朝廷との争い「承久の乱」では嫡男「大江親広」が官軍についたため親子で相反する立場となり、「吾妻鏡」の記載によれば、広元は幕府側に立ち、朝廷との戦いを唱えた「北条政子」を補佐し、朝廷と戦いが始まる際には、朝廷の権威におびえる御家人たちに激を飛ばし、幕府軍を勝利に導いた功労者であるとしています。

また「和田義盛」と幕府の戦いとなった「和田合戦」では、軍勢の召集や所領の訴訟において、広元が執権「北条義時」と「連署」をした文書が残されています。
朝廷とも繋がりがあったとされ、頼朝が関りを持っていなかった「土御門通親」などの公卿とも独自の連絡網を持っていたことなども明らかになってます。

広元はこうして京都にも幅広く人脈を持つなどし、幕府における政策の決定、実行に大きな影響力を持つ人物であったことが推測されています。

なさらに頼朝の存命中、頼朝は正二位の官位を持ち、配下の中でも地位の高かった、実弟「源範頼」、正室政子の父「北条時政」らが従五位下という官位であったのに対し、頼朝に仕え始めたころ既に従五位下であった広元は早い時期から正五位をに一人だけなっていたことから、幕府の二番手としての地位を名実ともに得ていたとされます。

頼朝が亡くなった後も、幕府の最高権力者、第2代執権「北条義時」を上回る官位の正四位となっており、将軍に次ぐ存在として遇されていたとされています。

逸話など

鎌倉幕府第3代将軍「源実朝」が暗殺された際のエピソードとして、「成人してから後、涙を流したことがない」と、後年自ら述懐したという逸話が残っており、冷静沈着な判断が出来る人物だったのではないかと推測されます。(冷静沈着な広元だったから、頼朝の粛清の嵐の中無事に晩年まで幕府重鎮として活躍できたのかも知れませんね!)

鎌倉「北条義時」の「法華堂跡」の敷地に「大江広元の墓」とされる場所がありますが、江戸時代に長州藩によって作られたとされており、広元の墓とする確実な根拠はないようです。
言い伝えによれば、鎌倉十二所の山中にある五輪塔が広元の墓だと伝えられているそうです。

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